第四章 つとめ場所 天理教教祖伝

天理教教祖伝

第三章 みちすがら 天理教教祖伝第三章 みちすがら 天理教教祖伝

元治元年六月二十五日、飯降伊蔵が、初めて夫婦揃うてお礼詣りに帰った時、おさとが、救けて頂いたお礼に、何かお供さして頂きましよう。

と言ったので、伊蔵は、お社の献納を思い付いた。

翌七月二十六日に帰った時、伊蔵夫婦は二人とも、扇と御幣のさづけを頂いた。この日伊蔵から、家内の身上の煩いを救けて頂いたお礼に、お社なりと造って納めたいと存じます。と、取次を通して申上げた処、教祖は、

「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ。」

と、仰せられた。

どれ程の大きさのものを、建てさして頂きましようか。と、伺うと、

「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない。」

と、仰せられ、さらに、

「つぎ足しは心次第。」

と、お言葉があった。次いで、秀司が、どこへ建てさして頂きましようか。と、伺うと、

「米倉と綿倉とを取りのけて、そのあとへ建てるのや。」

と、仰せられ、つづいて、

「これから話しかけたら、出来るまで話するで。」

と、お言葉があった。

 この時、居合わせた人々は、相談の上、三間半に六間のものを建てさして頂こうと心を定め、山中忠七、費用引き受けます。飯降伊蔵、手間引き受けます。辻忠作、瓦。仲田佐右衞門、畳六枚。西田伊三郎、畳八枚。それぞれ上げさして頂きます。と、話合いが出来た。越えて八月二十六日、おつとめが済んで参詣の人々が去んだ後、特に熱心な者が普請の寄付金を持ち寄った処、金五両あった。早速、これを手付けとして、飯降伊蔵は阪の大新へ材木の注文に、小路村の儀兵衞は守目堂村の瓦屋へ瓦の注文に行った。

引き続き、信心の人々が寄り集まって、先ず米倉と綿倉を取りのけ、地均しをした上、九月十三日には目出度くちよんの始めも了り、お屋敷の中は、連日勇ましい鑿や槌の音が響いて、やがて棟上げの日が来た。

元一日にゆかりの十月二十六日、朝から教祖の御機嫌も麗わしく、参詣人も多く集まって、棟上げも夕方までには滞りなく済み、干物のかます一尾宛に御神酒一、二升という、簡素ではあるが、心から陽気なお祝いも終った。山中忠七が、棟上げのお祝いに、明日は皆さんを自宅へ招待さして頂きたい。と、教祖に申上げると、教祖は快く許された。

翌二十七日朝、一同が、これから大豆越村へやらせて頂きます。と、申上げた処、教祖は、

「行ってもよろし。行く道すがら神前を通る時には、拝をするように。」

と、仰せられた。そこで、人々は、勇みに勇んで大豆越村へ向って出発した。秀司、飯降伊蔵、山中忠七、芝村清蔵、栄太郎、久太郎、大西村勘兵衞、弥三郎、兵四郎、安女、倉女、弥之助の人々であった。

山口村、乙木村を左に見て進むと、間もなく行く手に、佐保庄、三昧田の村々が見える。尚も南へ進み、やがて大和神社の前へ差かかると、誰言うともなく、教祖が、神社の前を通る時は拝をして通れ、と仰せになった。拝をしよう。と、言い出した。そこで携さえて居た太鼓を、社前にあった四尺ばかりの石の上に置いて、拍子木、太鼓などの鳴物を力一杯打ち鳴らしながら、

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

と、繰り返し繰り返し声高らかに唱えつゞけた。

これを耳にした神職達が、急いで社前へ出て見るとこの有様なので、早速、中止を命じると共に、太鼓を没収した。

この日は、大和一国の神職取締り、守屋筑前守が、京都から戻って一週間の祈祷をして居る最中であった。(註一)由緒深い大和神社の社前で、卑俗な鳴物を用い、聞いた事もない神名を高唱するとは怪しからん。

お前達は一人も戻る事は相成らん。取調べの済む迄留めて置く。と、言い渡した。段々と取調べの上、祈祷の妨げをした。とて、三日の間、留め置かれたので、中には内心恐れをなす者も出て来た。

この事件は、忽ち伝わって、庄屋敷村へも、大豆越村へも、又、近村の信者達へも聞えた。お屋敷では、こかんを始め残って居た人々は、早速家々へ通知するやら、庄屋敷村や櫟本村の知人や、村役人に連絡して、釈放方を依頼するやら、百方手をつくし、新泉村の山沢良治郎からも、筑前守に掛け合うた。

又、櫟本村から庄屋の代理として岸甚七が来て掛け合うてくれたが、謝るより外に道がない。とて、平謝りに謝って貰った処、悪いと言うて謝るならば、容してもやるが、以後は決してこういう所へ寄ってはならぬ。との事で、今後決して致しませぬ。と、請書を書いて、漸く放免して貰うた。まだ日の浅い信者の中には、このふしから、不安を感じて落伍する者も出て、そのため、折角出来かゝって居た講社も、一時はぱったりと止まった。

 ふと、こかんが、行かなんだら宜かったのに。と、呟やいた処、忽ち教祖の様子改まり、

「不足言うのではない。後々の話の台である程に。」

と、お言葉があった。

普請は棟を上げただけである。これから、屋根も葺き壁も塗り、床板も天井板も張らねばならぬ。秀司は、大和神社の一件では費用もかかったし、普請の費用も次第にかさんで来たし、この暮はどうしたものかと、心配したが、伊蔵が、何にも案じて下さるな。内造りは必ず致します。

と、頼もしく答えたので、秀司は安堵した。

 大和神社の一件に拘らず、つとめ場所の内造りは進んだ。

「この普請は、三十年の見込み。」との、仰せのままに、屋根には土を置かず空葺にした。

 十二月二十六日、納めのつとめを済まして、飯降伊蔵が櫟本村へ戻る時、秀司は、お前が去んで了うと、後は何うする事も出来ん。と、言うた処、伊蔵は、直ぐ又引返して来ますから。と、答えた。秀司が、お前長らく居てくれたから、戻っても何もないやろ。ここに肥米三斗あるから、これを持って去に。と、言うた。伊蔵はその中一斗を貰うて、櫟本村へ着くと、家主から家賃の催促があったので、早速、その米を家賃に納れ、更に、梶本惣治郎から、百五十目借りて一時をしのいだ。翌二十七日、お屋敷へ帰って来て、直ぐ材木屋と瓦屋へ断りに行き、お聞きでもありましようが、あの大和神社の一件で費用もかさみましたし、今直ぐ払う事は出来なくなりましたので、暫く待って下さい。決して損は掛けませんから。と、頼んだ。そこは、親神の守護と平生からの信用で、両方とも快く承知してくれた。この旨を、秀司とこかんに報告した処、二人とも安堵して、今は、三町余りの田地が、年切質に入れてあって儘にならぬが、近い中に返って来る。そしたら、田地の一、二段も売れば始末のつく事である。決して心配はかけぬ。と、慰めた。

この元治元年には、山中忠七、飯降伊蔵の外に、山沢良治郎、上田平治、桝井伊三郎、前川喜三郎等の人々が、信仰し始めた。

元治元年は暮れて二年となり、四月には改元して慶応元年となる。この年の元旦、飯降伊蔵は櫟本村から年始の挨拶に帰り、直ぐ我が家へ引返して正月を祝い、又、お屋敷へ帰って来た。

つとめ場所は、出来上がった。

人々にとっては、中途に波瀾があって苦心が大きかっただけに、嬉しさも一入で、世界が一新したように感じられた。新築成った明るい綺麗なつとめ場所こそ、正しく成人の歩を進めた、心のふしんの姿であり、きりなしふしんへの門出であった。

木の香も新しい上段の間の神床に親神を祀り、教祖は、同じ間の西寄りに壇を置いて、終日、東向いて端坐なされ、寄り来る人々に、諄々と親心の程を伝えられた。

この頃既に、こかんは、諸々の伺いに対して、親神の思召を取り次いで居た。飯降伊蔵夫婦は、毎日詰めて居り、山中忠七も、時々手伝いに来た。

庄屋敷村の生神様の、あらたかな霊験を讃える世間の声が、高くなるにつれ、近在の神職、僧侶、山伏、医者などが、この生神を論破しようと、次々に現われた。

慶応元年六月の或る夕方、天理王命と申して、日暮に灯も點さぬのか。

と、言いながら、二人の僧侶が入って来た。こかんが応待に出ると、つかつかと歩み寄り、その両側に白刃を突き立て、難問を吹き掛けた。隣りの六畳の間に居た飯降伊蔵は、いざと言えば飛び出そうと身構え、はらはらはしながら問答を聞いて居た。

しかし、こかんは、平然として常に変らず、諄々と教理を取り次いだ。

僧侶は、理に詰った揚句、畳を切り破り、太鼓を切り裂くなど、暴れ散らして出て行った。

守屋筑前守が、教祖にお目に掛り、種々と質問して、教祖の明快なお諭しに感服したのは、この頃である。

この年八月十九日、教祖は、大豆越村の山中忠七宅へ出掛けられ、二十一日には、こかんも出掛けた。こかんは二十三日迄、教祖は二十五日迄、滞在されて、寄り来る人々に親神の思召を伝え、身上事情に悩む人人を救けられた。

同年七、八月頃、福住村へ道がつき、多くの人々が相次いで参詣して来た中に、針ケ別所村の助造という者があった。眼病を救けられ、初めの間は熱心に参詣して来たが、やがて、お屋敷へ帰るのをぷっつりとやめて了ったばかりではなく、針ケ別所村が本地で、庄屋敷村は垂迹である。と、言い出した。

教祖は、九月二十日頃から少しも食事を召し上らず、

「水さえ飲んで居れば、痩せもせぬ。弱りもせぬ。」

と、仰せられて、一寸も御飯を召し上らない。人々が心配して、度々おすゝめ申上げた処、少々の味醂と野菜をお上りになった。こうして約三十日間の断食の後、十月二十日頃、急に針ケ別所村へ出張る旨を仰せ出され、飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎を供として、午後九時頃、針ケ別所村の宿屋へ到着された。

 翌朝、教祖は、飯降、山中の両名に、

「取り払うて来い。」

と、仰せられた。早速、二人は助造宅の奥座敷へ乗り込み、祀ってあった御幣を抜いて二つにへし折り、竈に抛り込んで燃やして了った。

宿へ戻って、ただ今取り払うて参りました。と、申上げ、これで、もう帰ったらどうやろなあ。と、二人で話し合うて居ると、教祖は、

「帰ぬのやない。」

と、仰せられた。

 助造の方でも、直ぐには帰んで貰う訳には行かぬ。と、言い出し、かれこれして居る中に、奈良からは、金剛院が乗り物でやって来る。こちらも、守屋筑前守の代理として山沢良治郎が到着する。いよいよ談判が始まった。

しかし、いかに言い曲げようとも、理非曲直は自ら明らかである。助造が教祖に救けられた事は事実である。彼の忘恩は些かも弁護の余地が無いのみならず、針ケ別所村を本地とする説の如きは、教祖を前にしては、到底主張し了せるものではない。三日目になってとうとう道理に詰って了い、助造も金剛院も、平身低頭して非を謝した。落着迄に七日程掛った。

お帰りに際し、助造は、土産として、天保銭一貫目、くぬぎ炭一駄と、鋳物の燈籠一対有った中の一つとを、人足を拵えてお屋敷迄届けた。

同年、おはるが懐妊った。教祖は、

「今度、おはるには、前川の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの真之亮やで。」

と、懐妊中から、仰せられて居た。月みちて慶応二年五月七日、案の定、玉のような丈夫な男の児が生れた。教祖は男児安産の由を聞かれ、大そう喜ばれた。そして、「先に長男亀蔵として生れさせたが、長男のため親の思いが掛って、貰い受ける事が出来なかったので、一旦迎い取り、今度は三男として同じ魂を生れさせた。」と、お話し下された。

この頃、近郷近在の百姓達だけではなく、芝村藩、高取藩、郡山藩、柳本藩、古市代官所、和爾代官所等、諸藩の藩士で参詣する者も続々と出て来たが、半面、反対攻撃も亦一層激しくなった。

慶応二年秋の或る日、お屋敷へ小泉村不動院の山伏達がやって来た。

教祖にお目に掛るや否や、次々と難問を放ったが、教祖はこれに対して、一々鮮やかに教え諭された。山伏達は、尚も悪口雑言を吐きつづけたが、教祖は、泰然自若として些かも動ぜられない。遂に、山伏達は、問答無用とばかりに刀を抜き放って、神前に進み、置いてあった太鼓を二箇まで引き裂き、更に、提灯を切り落し、障子を切り破るなど、散々に暴れたその足で、南西へ二里、大豆越村の山中忠七宅へ乗り込んで、御幣を抜き、制止した忠七の頭をたたき、踵をかえして北へ向い、古市代官所へ訴えて出た。かくて、古市代官所としても、庄屋敷の生神様を注視する成行きとなった。

註一 守屋筑前守広治は、大和国磯城郡川東村蔵堂の住人、嘉永五年筑前守に任ぜられ、従五位に敍せられ、守屋神社の神職をつとめると共に、吉田神祇管領から、大和一国の神職取締りを命ぜられて居た人である。

天理教教祖伝第五章 たすけづとめ 天理教教祖伝