第一章 月日のやしろ 天理教教祖伝

天理教教祖伝

第一章 月日のやしろ

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」

神々しい威厳に充ちた声に、身の引緊まるような霊気がその場に漲った。

 戸主の善兵衞も、修験者の市兵衞も、親族の人々も、誰一人頭を上げようとする者もない。それは、今までに聞いた事もない神であり、思いも寄らぬ啓示であった。善兵衞は、初めの程は全くその意味を解し兼ねたが、考えると、この啓示は中山家にとっては実に容易ならぬ重大事であり、どうしても実行出来そうにない事である。と、思い廻らすうちに、ふと念頭に浮んだのは、去年の冬頃から今日に打続く不思議な出来事である。

天保八年十月二十六日のこと、十七歳の長男秀司は、母親みきに伴われて麦蒔の畑仕事に出た折、急に左足に痛みを覚え、駒ざらえを杖にして辛うじて家に辿りついた。早速、医者に診せた処、薄荷薬などを用いて手当ての限りを尽してくれたが、一向に痛みは治まらない。そこで、人の勧めるまゝに、近在に聞えた修験者、長滝村の市兵衞に使者を出したが、あいにく市兵衞は仁興村へ行って不在であった。

 越えて二十八日、再び使者をたてた。市兵衞は事の由を聞いた上、早速、百燈明を上げて詫びてくれた。使者が帰った頃には治まって居た。

が、翌日になると又痛み出したので、又もや使者を出して祈祷して貰うと、一旦は痛みは治まるものゝ、次の日になると又痛み出し、使者を出して祈祷して貰うと、治まった。こうして三度祈祷が繰り返されて、一応治まったが、二十日程経つと又々痛み出した。

 心配の余り、善兵衞自ら市兵衞を訪れ、折入って相談した処、そういう事ならば、一層の事、お宅で寄加持をするが宜しかろう。との事であったので、一旦家へ帰り家人とも相談の上、その意見に従う事にした。

市兵衞は、勾田村のそよを雇い、幣二本を持たせて台とし、近所の誰彼にも集まって貰い、護摩を焚き寄加持をした処、痛みは治まった。半年程経つと痛み出したので、寄加持をして貰うと、治まる。暫くすると又痛むという工合に、一年の間に九度も繰り返した。寄加持の時には、ただ近所の人々に集まって貰う丈ではなく、一々酒飯を振舞い、又供養のため近在の人々に施米した。一回の費用は凡そ四百目かゝり、軽い経費ではなかったが、可愛い伜を救けたいとの親心から、善兵衞は少しもその費えを厭わなかった。

かくて、天保九年十月二十三日、夜四ッ刻(午後十時)、秀司の足痛に加えて、善兵衞は眼、みきは腰と三人揃うての悩みとなった。この日は、庄屋敷村の亥の子で、たま/\市兵衞も親族に当る乾家へ来て居た。呼ぶと、早速来てくれ、これはたゞ事ではない、寄加持をしましょう。とて、用意万端調え、夜明けを待って、いつも加持台になるそよを迎えにやったが、生憎と不在であった。やむなく、みきに御弊を持たせ、一心こめての祈祷最中に、

「みきを神のやしろに貰い受けたい。」

との、啓示となったのである。

 突嗟の間にも、この一連の事を思い廻らした善兵衞は、何となく不安を覚えたが、元の神の思召は、到底、お受け出来るものではないので、これはお断りするがよいと思い定め、折角の仰せでは御座いますが、子供も沢山御座いますし、村の役なども勤めて忙しい家で御座いますので、お受けは出来ません。他様に立派な家も沢山御座いますから、どうかその方へお越し願います。と、申上げ、市兵衞も言葉を添えて、お昇り下さいませ。と、願った。(註一)

しかし、元の神はどうしてもお聞き容れにならず。みきの言葉はいよいよ厳しく、その様子はます/\激しくなった。いつもの加持台の代りにみきを使ったばかりに、その口から思いもかけぬ未知の神の声を聞いて、多年、場数を踏んだ流石の市兵衞も、全く途方にくれた。

寄加持は自ずと停まり、こゝに事態はあらたまった。元の神に暫時の猶予を願った一同は、その場を下がり額を寄せて協議する一方、居合わさない親族の誰彼にも使者を走らせた。

家族や親族に、市兵衞も加わって、あらゆる智恵をしぼって相談を重ねたが、いくら相談しても、元の神の思召に従う方がよい。と言う者はない。子供は小さいし、村の役もあるし、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか。お断りするのが分別じや。と、口を揃えて善兵衞を勇気づけるばかりであった。善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。と、懇願した。

その言葉の終るか終らぬうちに、みきの様子は一変し、言葉も一段と厳しく、

「誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」

と、命ずるように、諭された。が、人々も退こうとはせず、人間の我々は、とても二十年も三十年も待って居る訳には参りません。今直ぐお昇り願います。と、迫ると、みきは更に激しく、

「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」

と、無我の境に、ひたすら元の神の思召を伝えられた。

夜を日についで三日の間、御幣を手にして端坐せられたまゝ、一度の食事をも摂らず、些かの休息もされぬみきは、或る時には静かに坐って居られるかと思えば、或る時には響き渡るような声で、厳かに元の神の思召を啓示げられ、手は激しく揺れ動き、御幣の垂紙は散々に破れた。

何とかしてお昇り頂く手段は無いものかと、尚も相談を重ね、市兵衞にも諮ってみたが、事は既に市兵衞の力の及ぶ処ではなく、況んや人々にも名案は無かった。一方、食事も摂らず床にも寝まず、昼夜の別なく元の神の思召を伝えられるみきの緊張と疲労は、傍の見る眼にもその度を加え、このまゝでは一命の程も気遣われる様子になったので、遂に善兵衞は、事こゝに至ってはお受けするより他に途は無い、と思い定め、二十六日、朝五ッ刻(午前八時)、堅い決心の下に、

「みきを差上げます。」

と、お受けした。この時、それまでの激しい様子初めて鎮まって、中山みきは神のやしろと定まりなされ、親神の心入り込んで、その思召を宣べ、世界たすけのだめの教を創められた。これぞ、我等が、月日のやしろと仰ぎ、ひながたの親と慕い、教祖と稱える方である。時に、御年四十一歳、天保九年十月二十六日であった。(註二)

いまなるの月日のをもう事なるわ
くちわにんけん心月日や (一二 67)

しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている (一二 68)

註一 この時、長男秀司18歳(満17歳3カ月22日)長女おまさ14歳(満13歳6カ月18日)三女おはる8歳(満7歳1カ月17日)五女こかん2歳(満零歳11カ月2日)であった。

註二 天保9年10月26日は、西暦1838年12月12日にあたる。