天理教教会辞典 網走大教会 あばしりだいきょうかい

網走大教会(あばしりだいきょうかい)

設立の元一日と初代会長時代

明治24年(1891)、干葉県安房郡富崎村の漁師小山福太郎(27歳)は、静岡県伊東港で帆の修繕中に目を傷め、通りすがりの老女に勧められるまま、林與兵衛(後の嶽東部内伊東分教会初代会長)宅を訪ね、初めて親神に祈願してもらった。

その時は治らなかったが、一つ一つ胸に響く林の忠言と「いんねん」の教理には、強く心を動かされた。

これがきっかけとなったのか、伊東の布教者たちが、次々と海を渡って房総の地に赴いた。

こうして、明治26年に入信するに至った小山は、船乗り仲間で同様に目を患っていた小谷熊吉(後の網走大教会初代会長)に信仰を勧め、翌27年27歳小谷は入信した。

続く28年には、小谷の導きによって、同業の石崎安治(後の嶽東部内館山分教会初代会長)が信仰し始めた。

このように、伊東出張所からの熱心な布教と地元の人々の伝道とが相俟って急速に道が伸び広がる中、小谷は明治31年から本腰を入れて布教し始めた。

この頃すでに北海道では、新天地開拓の希望に燃える信仰者たちが続々と上陸し、熱烈な布教活動を繰り広げていた。

明治33年夏、小山福太郎(36歲)、石崎政吉(21歳)の両名が横浜を出港し、函館を経由して東部の厚岸港に辿り着いた。

石崎はそこに留まり、小山は網走に赴いて布教を始めたが、小山は35年、石崎は36年にそれぞれ帰国した。

また、34年には小谷熊吉(34歳)が網走に、野中平吉(27歳)が厚岸に渡って布教したが、野中は38年に故郷へ戻った。

一方、地元では、伊東出張所の指示によって、34年に各講が連合し、石崎安治を所長に館山出張所が誕生していた。

小山熊吉が借りた家には戸も畳もなく、代わりに粗末なむしろを下げ、わらを敷いて寝床にしていたというが、一番切なかったのは、極貧のどん底生活よりも、北国の人にしか分からない、流氷が接岸したときに吹きすさぶ身を切るような寒さではなかったか。

記録によれば、拾ってきた子芋や魚の臓物などを常食とする赤貧の中からも、小山、石崎、野中、そして小谷たちは、3円、5円と館山にお供えを送り続けた。

教祖の「ひながた」に支えられずして通り得る道中であろうか。

小山が帰国したあと、小谷は、明治36年から独りで布教を続けていたが、この頃から次第に信仰を聞き分ける人も現れ始め、37年から39年にかけて、刑務所の看守を手始めに次々と信仰し始める人や「ようぼく」が生まれ、明治40年3月には水口分教会の第382号講となった。

小谷は、舅と妻子を残して来ていたのだが、不幸にも子供が脊髄の病気で床から離れられないことなどもあって、明治39年に協議離婚し、翌40年、縁あって脇本すゑの入り婿となった。

脇本熊吉は、相手に応じて実に適切で的を射た話をする人で、人々の尊敬を集めていたが、極度に視力が弱く、また文盲で何かと不自由であったことから、館山出張所長の計らいで、明治41年、三幣(さんぺい、後にみぬさと改称)勝五郎(後の網走大教会2代会長・24歳)が布教の応援にかけつけた。

三幣は安房郡滝田村の農家の一人息子で、学校からは将来教職に就くよう勧められていたが、明治31年14歳のとき、リューマチを患っていた姉のことを耳にして訪れた伊東からの布教師が、いろいろと神様の話を取次ぐ中で、「この信仰は世界だすけの道である」という一言を聞いて雷に打たれたような衝撃を受け、何か計り知れない真理がこの教えに秘められていることを直感し、即座に教師への夢を捨てて布教の道に入る決心をした。

以後10年間、館山出張所の一員として、主として林寅五郎(伊東分教会2代会長)の指導のもとに、信仰の錬磨と布教伝道に青春の情熱を傾けていたのである。

三幣が応援に来たあとも、網走ではまだ困窮のどん底生活が続き、夏も冬も薄い着物1枚しかないという有様であった。

布教中に猛吹雪に見舞われ、びしょ濡れになって戻っても、家には着物を乾かす薪すら無く、あの時だけは心底つらいと思った、と後年述懐していた。

このような暮らし向きの中でも、教祖のひながた唯一つを心の支えに、世界だすけへのほとばしる情熱を燃やし続けて布教に打ち込んだ結果、だんだんと信仰者も増えてきた。

明治41年は天理教が一派独立をし、各地で活発な布教活動が行われた。

42年に館山が宣教所となったのを受けて、翌43年、網走でも待望の神殿建築に着手した。

材木の伐採中に瀕死の重傷を負う者が出たが、真剣な「さんげ」と「おさづけの理」の取次ぎで鮮やかに救われるなど、「心のふしん」も形の普請とともに進んでいった。

また、見ず知らずの大工の親子が、運命転換のためにと勤労奉仕を申し出てくるという、不思議なほど時宜を得た援軍を授かって、50坪(165㎡)余りの教会建物がようやく完成した。

普請の完成に続いて、費用の捻出に大いに難渋はしたが、最初の布教者が足を踏み入れてから11年目の明治44年2月4日、脇本熊吉(44歳)を初代所長に網走宣教所が設置された。

この大仕事が終わって網走の道に一区切りがついたので、大正2年(1913)三幣は5年半ぶりに館山へ戻り、翌3年、布教先の病院で看護婦をしていた間立(まだて)かくと結婚した。

2代会長時代

大正3年、宣教所設置後わずか3年目にして、脇本は病の床に臥せる身となり、周りの願いも空しく47歳で出直した。

主だった役員が後任者の人選を協議した結果、三幣勝五郎に白羽の矢が立った。

勝五郎は一人息子で、老齢の両親をいつまでも放っておくわけにはゆかず、あくまで自分は網走にとっては外様の人間だという思いもあって気が進まなかったが、館山出張所長や、時の北海道教務支庁長で当時嶽東の上級水ロ大教会長であった板倉槌三郎本部員に説得されて心が決まり、新婚半年目の大正4年5月、31歳で2代所長に就任し、単身で再び網走の土を踏んだ。

妻のかく(29歳)と長女利惠(4カ月)は翌5年に網走へ移住した。

宣教所を設立して7年目の大正6年、待ちに待った御分霊(現在のお目標)鎮座祭が、上級の嶽東、伊東、館山のそれぞれの会長らを斎員に執り行われ、名実相伴う布教の拠点となった。

大正7年、天理中学に入学したばかりの2代真柱が、夏休みを利用して東北、北海道を回り、初代真柱夫人、姉・玉千代と共に初めて網走を訪れた。

このとき、初代真柱夫人から教勢についての質問があったが、宣教所の維持もようやくの時代であったので、心ならずも確とした返事ができなかった三幣は、これを機に教勢拡張を決意し、一段と布教に熱を入れた結果、1年半後の大正9年1月に初の部内が誕生し、この年以降、後に部内の設置に活躍した人材の多くが、続々と信仰の道に入った。

大正10年、教祖40年祭(大正15年)執行が打ち出されると、網走でも部内の誕生、布教専従者の輩出が続き、布教意欲もますます昂揚してきた。

これを吉祥と、大正13年、三幣は、かねてからの念願であった東京布教を開始し、翌14年に宣教所を設置した。

この14年から翌15年1月の教祖40年祭にかけては宣教所の設置が相次ぎ、一挙に12カ所の誕生を見て、部内は計15カ所となった。

教祖40年祭は、「血の一滴までつとめぬこう」を合言葉に全員が働き合い、従来にない大勢の帰参者が賑やかに団体列車に乗り込んで、あたかも車中が礼拝場であるかのように、朝夕お勤めをしながら「おぢば」へ帰った。

この年、翌年の板倉槌三郎本部員の巡教に備えて、客間を建築した。

昭和5年(1930)、時の北海道教務支庁長で日頃から三幣が敬愛していた島村國治郎本部員が全道を自転車で視察したが、運転ができない三幣は、毎日生傷と赤チンだらけの足で練習を続け、教区主事としてようやく随行の役目を果した。

三幣は進取の気性に富んだ男で、海外布教に備えて英会語の習得に挑んだり、現在の少年会の前身と言える「コドモ会」を昭和7年に発足させ、多い時で200人をこえる子供を毎月の例会に集め、様々な行事を催した。

この会は、戦争のための中断をはさんだが、26年に復活し、少年会が発足した42年まで続いた。

また三幣は独特の眼力を備え、初対面の人の過去の行状、その年月日や天候などをぴたりと言い当てたり、人の亡くなる年月日、時間などを予め告げてその通りになるということが度々あった。

また、願いをかけたある家の子が亡くなり、信仰のない家人に親神を非難されて外に追い出されたが、庭先で一心に祈ってその子を蘇生させ、親神の存在を目のあたりに見せたあと、再び出直しの時刻を予告するということもあった。

好事魔多し、昭和8年、三幣の次女・都が、天理高女に在学中16歳で出直した。

この時、板倉槌三郎本部員や館山支教会長からいろいろと話を聞き、3年後の教祖50年祭までに網走を支教会に昇格する腹を三幣は決めた。

この年、初めて祭儀式に雅楽を取り入れた。

昭和9年、上級館山の指示によって、東京に設置した宣教所が網走を離れ、館山直属の部内となった。

またこの年には、3年を待たずに支教会昇格が決まり、盛大に奉告祭を行った。

昭和12年、板倉槌三郎本部員の高配により、水口大教会の高岡徳三郎(24歳)が、三幣家の養子となり、勝五郎の長女利惠(22歳)と結婚した。

この年、日中戦争が起こり、以後すべてが戦時体制に移行し、布教者の召集などが増え始めた。

昭和16年には太平洋戦争が始まり、「おつとめ」にも強い制限が加えられ、布教よりも炭鉱の労働奉仕などにほとんどの人手がとられる有様となって、教勢は停滞した。

戦争に不利な状況が見え始めた昭和18年夏の深夜、隣接家屋から出た火が、瞬く間に教会建物に燃え移り、御分霊を辛うじて避難申し上げる事ができただけで、建物は完全に焼け落ちた。

この重大な局面に、島村國治郎本部員が遠路を厭わず網走へ赴き、南海大教会の火災に対する「おさしづ」の写しをもとに、方々から頂戴して教会復興ができるほどの額になった見舞金を、そっくりおぢばにお供えさせて頂いては、という実に常識を覆すような思い切ったことを提案した。

勝五郎は島村本部員の胆力と深慮に感服し、素直に仰せに従った。

教会復興といっても、戦時ゆえ新築は自粛せねばならず、資材の入手も困難を極める時であったので、既成の建物で適当なものを探すこととなった。

関係者一丸となった姿が実を結び、もともと旅館であった家屋を買い取ることができ、そこに教会を移した。

三幣勝五郎は、昭和14年頃から高血圧で体調が思わしくなかったが、網走に大きな神殿と役員住宅を建てることと、東京布教を促進することが年来の夢であったため、一年の半分を東京で過ごしていた。

昭和20年、東京滞在中に空襲に遭い、群馬県に避難している間に首都は再び大空襲を受け、東京で唯一の教会が焼失してしまった。

勝五郎は命からがら網走へ戻ったが、この5年来、後継者德三郎の応召、教会焼失と移転、東京の部内焼失、そして敗戦と、度重なる心労も禍いしてか、11月から床につき、翌12月、静かに61歳の生涯の幕を閉じた。德三郎は、翌21年春、無事網走へ戻った。

3代会長時代

勝五郎の後任には、三幣かく(59歳)が推され、昭和21年春、3代会長に就任した。

かくは、2代会長の思い残した神殿の再建が急務と、早速普請に取り組み、敗戦直後で資材調達が極めて困難であったが、親神のお働きと多数の協力を得て、新しい神殿が同年秋に完成した。

4代会長時代

昭和23年、三幣德三郎(35歳)が4代会長に就任した。

翌24年、板倉知廣本部員から、毎月おぢばに帰らせて頂けと鼓舞された德三郎は、2月から毎月帰参することにした。

ところが、6月に帰る途中、栃木県内の駅で列車から転落し、頭蓋骨を折って重態となった。

家族や役員信者の懸命のお願い勤めとおさづけの理の取次ぎで九死に一生を得、9日目にしてようやく意識が戻り始めた。

記憶喪失の状態が続いたが、11日目に駆け付けた板倉本部員による会長家族や役員への厳しい訓示とおさづけの理の取次ぎで、病状も一段と快方に向かう兆しが見え、7月には網走へ戻ることができた。

昭和25年、32年ぶりに真柱を迎え、心を新たにして躍進を誓い合った。

昭和31年の教祖70年祭には、東京の信者も網走に集合して過去にない賑わいを見せ、鼓笛隊も加えて勇んでおぢばへ帰った。

この年には附属建物の増築を行った。

また、この31年には、同年秋刊行される教祖伝の稿案をもとに講習会が開かれたが、これを受けて「おつとめ」の大切さを認識させるために巡教を行った。

また、朝夕のお勤めも録音し、勤修後にテープを聴いて反省したり、80歳の理事も未習得の楽器に挑むなど、「おつとめ旋風」が巻き起った。

昭和32年、板倉知廣本部員の指導のもとに土地を入手し、34年から3年計画で神殿移転計画に取りかかった。

当時の教勢にしては建物の規模が大きかったため不安を捨てきれぬ面もあったが、心のふしんが形の普請に現れることを信じて、全員真剣に取り組んだ。

この年、中山善衛真柱継承者が巡教し、普請現場を視察した。

3年間の「ひのきしん」による直営工事は、紆余曲折の道を通りつつも、昭和36年予定通り完成し、秋に真柱継承者を迎えて鎮座・奉告祭を挙行した。

真柱継承者が鎮座祭祭主を勤めたのはこれが初めてのことであったので、関係者の喜びは、奉告祭の夜の市内提灯行列で頂点に達した。

昭和40年、2代真柱の3度目の巡教を受けたが、42年の出直しにより、これが最後の巡教となった。

昭和41年、喜びの教祖80年祭が終了し、網走でも年祭を勤めたが、その折、真柱継承者に推敲と作曲を願い出てあった教会歌「進め網走」が発表された。

また、この年、教会報『網走月報』が創刊された。

昭和42年、中山善衛よのもと会会長を迎え、地区総会が開催された。

翌43年、4代会長の長男三幣公明が山本昌子と本部教祖殿で結婚式を挙げた。

昭和46年には、板倉知廣内統領を迎えて創立60周年記念祭を行った。

翌47年、3代会長三幣かくは、一本の入れ歯もないほど病まず弱らぬまま、85歳で出直した。

昭和50年、本部直属教会以外としては異例の、真柱を迎えての月次祭が勤められた。

この時、真柱から、翌年の教祖90年祭に対する特別な心定めがあるかと問われた三幣德三郎は、その時は特にないと答えたが、90年祭終了後に会長の交代を考えていたので、その奉告祭までに30の布教所を新設し、その上で会長を辞する旨を部内に表明した。

昭和36年の神殿建築によって生じた借財の返済は、38年にあと3割余を残すのみとなったが、金銭契約上の過失が内部から起り、負債は見る見るうちに倍化して、以後約10年間は茨の道を通ることになった。

三幣利惠を会計責任者に必死の努力が続けられたが、49年から50年にかけて、3代会長の年祭、雛型かんろだいの据替え、真柱の巡教と、3つの旬が相次いで訪れたわずか約1年の間に、計り知れぬ親神のお働きが現れ、借財は跡形もなく消えた。

5代会長時代

教祖90年祭が盛大に勤められた昭和51年、三幣公明(36歳)が5代会長に就任した。

布教所も31カ所が新設された。

就任奉告祭は、真柱夫妻を迎え、全員感激に浸りつつ勇んで勤められた。

昭和53年、3年後に迎える網走創立70周年と上級館山創立80周年をめざし、部内教会設立に立ち上がるようにとの提唱が鈴木邦廣嶽東大教会長と世話人板倉知廣本部員からなされた。

この年、附属家の増築と、入手した隣接地に会館の建築を行い、それを利用して翌54年「めばえ幼育園」を開設した。

昭和55年、中山善司真柱継承者が来会し、これが、その年に嵩上げ工事で増築した客間の使い初めとなった。

昭和56年、創立70周年のこの年をめざして進められてきた教会の新設は17カ所となり、部内総数は50となった。

ここに至って嶽東大教会長は、57年の嶽東創立90周年のお供えとして、網走を分離し、本部直属とする心を決め、90周年記念祭終了後の昭和58年4月、網走陸級の許しを得た。

9月の奉告祭は、初めて正式に真柱名代を勤める中山善司継承者と弟善亮を迎えて挙行された。

昭和59年、真柱夫妻が次女みやのを伴って巡教し、本席、中山家の御分霊を祀った。

こうして大数会としての形が整った上で、網走は教祖100年祭を迎えることとなった。

網走大教会年表

年号月日内容
明治26年6月小山福太郎千葉県で入信
明治27年9月小谷熊吉(初代会長)千葉県で入信
明治31年三幣勝五郎(2代会長)千葉県で入信
小谷熊吉千葉県で布教開始
明治33年8月小山福太郎網走へ渡り布教開始
明治34年9月小谷熊吉網走へ渡り布教開始
明治35年12月小山福太郎千葉県へ戻る
明治37年~明治39年小谷の布教で、刑務所の看守を手始めに入信する者やようぼくが生まれる
明治40年3月水口第382号講元となる
3月5日三幣勝五郎おさづけの理拝戴
9月1日小谷熊吉、脇本すゑと結婚、脇本姓となる
11月26日脇本熊吉おさづけの理拝戴
明治41年5月27日三幣勝五郎網走へ渡り布教応援開始
明治43年神殿竣工
明治44年2月4日網走宣教所設置(所長本吉)
大正2年10月6日三幣勝五郎任務をおえ郷里の館山に向かう
大正3年3月2日間立かく(3代会長)千葉県で入信
10月27日三幣勝五郎、間立かくと結婚
12月3日脇本熊吉出直(47)
大正4年5月1日三幣勝五郎2代所長に就任、単身網走へ移住
大正5年11月11日三幣かく、長女と共に網走に移住
大正6年6月3日御分霊鎮座祭、翌日奉告祭
大正7年8月13日2代真柱、初代真柱夫人巡教
大正9年1月11日初の部内教会誕生
大正13年9月三幣勝五郎東京布教開始
昭和9年6月15日支教会に昇格
昭和16年4月1日分教会と改称
昭和18年8月8日隣接家屋の出火により教会建物焼失
昭和20年12月19日三幣勝五郎出直(61歲)
昭和21年4月23日三幣かく3代会長就任(教会数16)
10月5日神殿移転建築・就任奉告祭
昭和23年7月25日三幣德三郎4代会長就任
昭和25年2月8日2代真柱巡教
昭和31年10月6日附属建物增築竣工
昭和34年5月26日神殿移転建築認可
9月13日中山善衛巡教
昭和36年10月3日中山善衛巡教、祭主として鎮座祭執行
10月4日神殿移転建築奉告祭
昭和40年7月17日2代真柱巡教
昭和42年6月13日中山善衛よのもと会会長巡教
昭和46年10月6日創立60周年記念祭
昭和47年3月7日三幣かく出直(85歳)
昭和50年9月5日真柱巡教のもとに月次祭
昭和51年7月26日三幣公明5代会長に就任(教会数33)
10月6日真柱夫妻巡教のもとに就任奉告祭
昭和53年10月5日附属家・会館落成式
昭和55年2月28日中山善司来会、3階客間使い初め
昭和56年10月4日創立70周年記念祭(教会数50)
昭和58年4月26日大教会に陞級、厳東から分離
9月15日真柱名代中山善司、中山善亮巡教のもとに陞級奉告祭
昭和59年7月11日真柱夫妻巡教、中山家霊様鎮座祭

関連文献

[関連文献]
  • 『網走分教会史』(昭和36年)
  • 『道の肥』(昭和40年)
  • 『網走月報』(教会報、昭和41年〜)
  • 『板倉知廣先生を偲ぶ』(昭和56年)