村上幸三郎 むらかみこうざぶろう
専東分教会(大阪府堺市)の初代会長。
天保12年(1841)9月19日、父村上源次、母乃婦の長男として生まれる。
経済的に豊かな環境で育った村上幸三郎は、明治8年(1875)に北野清平の長女コトと結婚。
家督を継いで暮らしていたが、明治13年4月頃から坐骨神経痛を患い、手足の不自由や痛みに苦しむようになった。
さまざまな治療を試したが効果はなく、以前から噂を聞いていた「庄屋敷の生き神様」を頼って教祖(おやさま)を訪れた。
その際、教祖から
「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」
というお言葉をかけられ、鮮やかなご守護をいただいた。
明治14年の正月には本復祝いを行い、お礼のためにおぢばへ帰った。
このとき教祖は、幸三郎に
「金や物でないで。救(たす)けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」
と仰せられた。
この入信の経緯については、『稿本天理教教祖伝逸話篇』に詳しく記されている(72話「救かる身やもの」)。
この後、熱心なおたすけと布教活動を続けた幸三郎は、頻繁におぢばへ帰り、教祖から親しく教えを仕込まれた。
当時の記録や拝戴した赤衣(あかき)も現存している。
明治14年には、幸三郎を講元として真誠組を組織し、困難の中にも信仰を広め、明治23年の高安分教会設置の際に部属の講社となる。
明治25年、髙安分教会部属の泉東支教会が設置されると初代会長になり、明治33年4月2日に61歳で出直すまで、布教活動に専心する生涯をまっとうした。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、前記の入信の逸話のほかに、教祖が
「幻を見せてやろう。」
と仰せになり、赤衣の袖の内側から幸三郎に煙草畑の様子を見せたという話が取められている(97話「煙草畑」)。
- 村上嗣昭監修『天理教泉東分教会史』(天理教泉東分教会、1992年)