冨田伝次郎(旧姓藤村) とみたでんじろう
藤村伝次郎は、天保11年(1840)、播磨国美囊郡三木村(現、兵庫県三木市)にて生まれ、後に神戸の冨田に入婿する。
冨田家は、代々蒟蒻(こんにゃく)屋を家業としていた。
明治15年(1882)9月中旬、伝次郎は15歳になる長男米太郎の胃病を、和田崎町の先輩たちによって、親神にお願いしてもらい、3日の間にふしぎなたすけをいただいて入信した。
そのお礼に、生母の藤村じゅんを伴って、初めて「おぢば帰り」をした。取次に導かれて、教祖(おやさま)にお目通りしたところ、教祖は、
「あんた、どこから詣りなはった。」
と仰せられ、「兵庫から詣りました。」と申し上げると、教祖は、
「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ。」
「あんた、家業は何をなさる。」
とお尋ねになったので、「蒟蒻屋をしております。」と答えた。すると、教祖は、
「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや。」
と、仰せになった。
そして、
「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」
と、お教え下された。
伝次郎は、どう考えても、「高う買うて、安う売る。」という意味が分からない。
そんなことをすると、損をして、商売ができないように思われる。
それで、当時「おやしき」に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損する事のない、共に栄える理である。」と諭されて、初めて「成る程」と得心がいったという(「稿本天理教教祖伝逸話篇』104話「信心はな」)。
このとき「お息紙」と「ハッタイ粉の御供(ごく)」をいただいき、じゅんは、それを三木の生家へ持ちかえり、それによってふしぎなたすけが相次いで現れ、道(天理教の信仰)は、播州一帯に一層広く伸びていった。
伝次郎は、兵神真明組の講脇を務め、三木真明講の講元も務め、教会設立となってからは、明治24年10月3日に、三木支教会(現、分教会)の2代会長となり、明治33年1月8日、兵神分教会(現、大教会)の2代会長となっている。
- 『天理教兵神大教会史』(天理教兵神大教会史料集成部、1968年)
- 高野友治『清水与之助伝考』(天理教道友社、1983年)
- 高野友治『天理教伝道史』第3巻(天理教道友社、1956年)