天理教人名辞典 村田かじ むらたかじ

村田かじ むらたかじ

安政4年(1857)大和国添上郡轢枝村(現、奈良県大和郡山市轢枝町)に、父堀内与助、母寿の長女として生まれた。

兄は長男与蔵である。

父の与助は同村ですでに入信していた兄弟の西田伊三郎から教えを知り、文久2年(1862)に胃病を煩っていた前栽村の村田幸右衛門に「にをいがけ」(においがけ)している。

かじはその幸右衛門の長男長平に、明治10年(1877)12月に嫁いだ。

幸右衛門が明治初年から中山家にべったり出入りしていたことから、明治12年よりは長平・かじ夫婦もほとんど「お屋敷」へ詰めて色々な御用をした。

明治13年かじが中山家の宿屋の手伝いをしていた時、丹波市警察署から呼び出しがあり、中山秀司が止宿届を持って出頭した。

かじが「女中」と記入されてなかったので、かじも警察に出頭し怒られた。

それも秀司の言い訳で許された。

同年長平夫婦は教祖(おやさま)のお許しを得て、中山家の綿倉を借り豆腐屋を開業し、中山家の手伝いもした。

その後明治14年末に新立の中山重吉のつづきに新築し、明治15年早々、豆腐屋と宿屋を開業して、幸助(長平の弟)夫婦と一緒に住んだ。

明治16年8月15日三島村の「雨乞づとめ」にかじも参加した。

そのあと丹波市警察署へ拘引された。

この時、豆腐屋の門口でかじが幸助の妻すまに「おすまはん一寸行ってくるで」と大声でどなったので、すまが「しっかり行ってきいや、何も悪い事したのやないさかいに」と言った。

これを聞いた警官は「馬鹿」と大声で叱って「村田かじという奴は、行ってくる行ってくるて何か見物でも行くつもりでいやがる」と言ったという。

明治23年12月1日「あしきはらいのさづけ」を戴く。

明治22年から明治34年まで「おさしづ」に「かじ身上願い」が21回みられる。

明治34年7月14日に出直した(44歳)。