天理教人名辞典 梶本宗太郎 かじもとそうたろう

梶本宗太郎 かじもとそうたろう

明治13年(1880)3月15日、現在の天理市轢本町に父松治郎、母うのの長男として出生。

初代真柱中山眞之亮の甥にあたる。

幼い頃お屋敷に帰り、教祖(おやさま)にかわいがられ、吉川万次郎と2人で教祖に背負ってもらったことがあった(『稿本天理教教祖伝逸話編』193-194)。

明治26年、諸井政一らと一致幼年会を組織。

これは現在の天理教少年会の萌芽である。

教祖より「13歳になればやしきへ引き寄せる」といわれていたが、宗太郎20歳の明治32年、お屋敷に住み込むことを「おさしづ」でうかがっている(さ32・6・27)。

そして、後を浅田徳二郎へ任せ、家族共本部に伏せ込むことを許された(さ32・8・21)。

当時、一派独立のための多難な時期であった。

翌年10月18日、おさづけの理を拝戴、長崎へ単独布教に出ている。

明治35年から40年に至る間、本部員の随行として各地へ巡教に行っている。

明治40年2月、山澤サヨと結婚(さ39・7・11参照)。

1男5女をもうけた。

明治41年、東京府・神奈川県・千葉県・埼玉県教会組合連合会事務所書記を拝命し、本教一派独立の下働きをした。

また、叔父に当たる初代真柱の身上の患いに付き添って看護にあたり、水垢離をとって回復を願ったという。

明治44年9月26日本部員となる。

他に教務支庁長、世話人を含め、数多くの本部の要職につき、各地で起こった災害救援ひのきしんの先頭に立った。

中でも大正7年(1918)には2代真柱中山正善の教育委員になり、戦後、昭和24年(1949)からは、真柱継承者(現真柱)輔導委員を拝命するなど、2人の真柱教育にもかかわったことは特筆されよう。

大正14年、北丹波の震災の救援ひのきしんの時に、それまで教会ごとにまちまちだったバツピを現在のように統一したのも宗太郎であった。

また、教会資料の保存を提唱し、教祖50年祭のころから教会博物館の建設を熱心に説いていたという。

本部に勤めるかたわら布教に励み、昭和9年(1934)6月、鍛冶惣宣教所(現、分教会)を設立し、初代会長となった。

昭和30年9月13日出直し。76歳。