松村栄治郎 まつむらえいじろう
松村栄治郎は、天保13年(1842)10月8日、河内国高安郡教興寺村に生まれ、元治元年(1864)、平等寺村の小東政吉の長女さくと結婚し、長男吉太郎、二男亀次郎、三男五三郎、四男隆一郎の4男と3女の父となる。
さくは、後に小東家から、教祖(おやさま)の長男秀司のもとに嫁いだまつゑの姉にあたる。
栄治郎は、高安地方に長く続いた松村家の当主として、幼少のときから、よく学問を修め、信望も厚く、安政3年(1856)には、弱冠15歳で庄屋を命じられたほどであった。
明治4年(1871)の廃藩置県のときには、当時の淀県から、恩智村、垣内村、黒谷村、教興寺村の4カ村の連合戸長に任命され、さらに、翌年、当時の堺県から教興寺村戸長に任じられ、30年にわたって地方自治に尽くした。
栄治郎は、明治4年正月、教祖に妻さくの「たちやまい」の病気をおたすけ頂き、信仰を始めた。
さくは、1年ごしの患いであったが、教祖の手厚い看護により、3日後にはすっきり守護を頂いた。
明治6年10月、まつゑが松村家を訪ね、その翌7年9月、栄治郎はひさびさにおぢばへ帰り、3日滞在した。
以来、栄治郎のおぢば帰りも度が重なり、後には、毎月3、4回は、必ずおぢば帰りをするようになり、おぢばからも秀司が泊りがけで松村家へ出かけるようになった。
当時、教輿寺村を中心に、多数の信者が集まっていたが、官憲による圧迫、干渉の手が及んでいた。
このため、この地方の有力者である栄治郎宅につねに信者が訪ねてくるようになり、また、おやしきから松村家へ出かけるたびに、信者も勇んで集まってくるという有様であった。
明治12年10月19日、さくが病気のため、おぢばから仲田儀三郎、辻忠作の両氏が栄治郎宅に出かけ、河内地方の熱心な信者も集まって、三座のお願いづとめが行われた。
その夜も更け、翌朝4時頃になって、突然柏原分署より巡査が来て、おつとめ用の袴5領と扇子11本を没収し、おつとめにでた一人を拘引した。
栄治郎は、わが家に起こった事件であるので、4、5名の者と柏原分署へ出頭し、種々陳述し、21日には請書を提出し、栄治郎不在中の出来事として没収物はひとまず手元に返った。
翌22日には、手続書を堺県に提出し、松村家が天理教を信仰して以来、不思議な守護を頂いていることを書き添え、自由に親神の信仰ができるよう認めてもらいたいと申し出たが聞き入れられなかった。
この後も、公職にありながら、警察署へ廻るなどして、力の限りを尽くし、11月10日ようやく事件の決着をみた。
栄治郎は、おぢばへしばしば帰るうち、明治14年には、おつとめ衣につける十二弁の紋をいただいている。
明治15年6月17日、栄治郎は、妻さくが通風で悩んでいたため、、お願いにおぢばへ帰り、教祖に事の由を申し上げたところ、
「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう。」
と仰せられ、6月18日、教祖は、赤衣を召されて、人力車でお越しになり、栄治郎宅に3日間滞在され、さくをみずから手厚くお世話下された。
熱心な信者たちは、教祖の姿を拝ませていただきたいものと松村家へ大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。
教祖は
「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで。」
と仰せられたという(『稿本天理教教祖伝逸話篇』175-176頁)。
栄治郎は、官憲の取り締まりが厳しくなっていくなかで、たびたびおぢばへ帰り、教祖にご苦労をおかけしないですむ方法はないものかと、教会公認のため奔走し、明治17年の日誌には、大阪とおぢばを何回となく往復している様子が記されている。
栄治郎は、妻さくとともに松村家の信仰を始め、迫害干渉のなか、毅然として、若い人たちの信仰を育みささえて、今日の高安大教会の基盤をつくった。
明治22年、教興寺村の松村宅に、長男吉太郎を会長として高安分教会の設置が教会本部から許され、大阪府に出願することになったが、翌23年の設置認可の知らせを聞くことなく、明治22年11月6日48歳で出直した。