藤村成勝 ふじむらなりかつ
生没年不詳。
明治18年(1885)頃、教会設立の準備に携わっていた。
明治18年3月7日の教会設立事務所での会議では、議長を務めている。
この時の議題は、天輪教会所を三島村に設立すること、教会所は新築せず従来のまま地場(ぢば)に置くこと、教会の維持法は各講社が負担すること、教会の会長幹事は選挙で定めること、給料を支払うこと、神道事務局維持費など諸費用を負担することが定められ、会長・幹事の投票札が配られている。
翌日にも会議が開かれ、教会の名称が天輪教会であること、給料は支給するが辞退したい人には支給しないことが確認されたという。
この時、教祖(おやさま)に伺いに出ているが、会長は中山会長とすること、幹事はおって定めるという内容であったという(『復元』47号53頁)。
この会議については、教祖から
「さあ今なるしんばしらははそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで。」
との言葉があった(『稿本天理教教祖伝』277頁)。
その後5月には寸田種市とともに東京に出張、7月24日には、天理教会創立委員の肩書きで、北炭屋町の天輪教会所の維持を中山眞之亮に願い出ている。
同年8月には石崎正基・村上・高井猶吉と共に宇陀郡伊谷を始め式上・山辺・添上郡を「改良一件」のためまわっている。
7月から9月には道明寺に出掛けているので、今園国映と直接接触していたようであり、かなりの資金を渡されている。
大阪の大日本天輪教会や今園国映を担任とする出願が行き詰まる明治19年には、本部の教会設置活動に名前が出なくなる。
詳しい人物像は不詳。