西田伊三郎 にしだいさぶろう
文政9年(1826)大和国添上郡櫟枝村(現、奈良県大和郡山市櫟枝町)に生まれる。
安政6年(1859)伊三郎33歳の頃、妻女コトが歯を病み千束村稲荷に願掛けに行く途中、東方(轢本)からきた知人と会い、「庄屋敷の老婆さんに拝んで貰いなされ」と言われた。
妻女は教祖(おやさま)の許へ詣ると、
「待っていた。二三日前から知らせてやった」
と仰せになったという。
拝んでもらい話を聞くうち歯痛が治った。
春の刈り入れで忙しい頃で、参拝できずにいたところ、今度は眼が痛み出し、お詣りして話を聞いて治った。
教祖は
「夫も連れておいで」
と言われたので、伊三郎も共に参拝した。
伊三郎は文久元年(1861)頃入信し、兄の堀内与助よりにをいをかけられた前栽村の村田幸右衛門が文久2年頃入信している。
元治元年(1864)「つとめ場所」ふしんに畳8枚献納、翌慶応元年、教祖が針ケ別所へ出張される時、飯降伊蔵、山中忠七、岡本重治郎と共に伊三郎は伴の一員として出向いた。
伊三郎39歳の時である。
その前後おやしきに住み込み、草創期の住み込み青年が勤めた農事手伝いや米損きの「ひのきしん」に励み、真実を伏せ込んだ。
明治14年(1881)「かんろだい」の石普請に当たり、5月10日山行きをした。
「甘露台寄附井二入費控帳」の明治14年5月周旋方、入費の部に「一枝伊三郎」と記名されている(『ひとことはなしその二』153頁)。
晩年病を得て轢枝村へ戻り療養につとめたが、明治27年(1894)7月29日出直した(68歳)。
葬儀には永尾楢治郎・山中忠七両本部員が派遣され、当地方でかつて見ない盛大な葬儀を執行したという。