第六章 ぢば定め 天理教教祖伝

天理教教祖伝

天理教教祖伝第五章 たすけづとめ 天理教教祖伝 【徹底解説】「ぢば定め」の重要性とその意義について

教祖は、親神の思召のまにまに、明治二年正月から筆を執って、親心の真実を書き誌された。これ後日のおふでさきと呼ぶものである。その巻頭に、

よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから 一1

そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや 一2

このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする 一3

この世の元初まり以来、親を知らず元を知らずに暮して来た一列人間を、憐れと思召す親心の程を述べ、この度、真実の親神が初めてこの世の表に現われて、世界たすけのだめの教を創める、と宣べられ、

このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい 一4

このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる 一5

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん 一6

元のぢばこそ、一列人間の親里である、と、元のいんねんを明かされた。

かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる 一7

いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて 一8

真実の親の声を聞く時、人の心は皆勇む。今こそたすけ一条を急ぐ上から、世界中の人の心を勇め掛ける、と、陽気ぐらしへの親心を宣べられた。次いで、

このたびハやしきのそふじすきやかに
したゝてみせるこれをみてくれ 一 29

秀司は、既に五十に近くなりながら、正妻が無かった。これに対して親神は、世界たすけの前提として屋敷の掃除を急込まれ、年齢の点からは不釣合と思われようとも、魂のいんねんによって、小東家からまつゑを迎えるように、と諭され、

いまゝても神のせかいであるけれど
なかだちするハ今がはじめや 一 70

とて、教祖自ら、平等寺村の小東家へ出掛け、だんだんと魂のいんねんを説いて納得させられたので、明治二年婚約とゝのい、まつゑは目出度くお屋敷の人となった。

教祖は、おふでさき第一号に、この結婚を台として諄々と夫婦の理を教え、次の一首を以て結ばれて居る。

せんしよのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまる 
一 74

教祖は、この年四月末から六月初めにかけて、三十八日間の断食をなされ、その間少々の味醂を召し上るだけで、穀類はもとより、煮たものは、少しもお上りにならなかった。

明治維新により、明治三年には、吉田神祇管領が廃止された。人々は、成程、教祖のお言葉通りである。と、深く感銘したが、こゝに、先の公認は無効となった。

人々はこれを憂えて、再三新政府に願い出ようとしたが、教祖は、厳しくこれをお止めになり、

「願に行くなら行って見よ、行きつかぬうちに息が尽きるで。そんな事願に出るのやないで。」

と、仰せられたので、その事は取止めになった。ただ一条に親神に凭れ、いかなる試錬にも堪えて通り抜いてこそ、親神の思召にかなう成人を遂げる事が出来る、と、神一条の道の根本の理を諭されたのである。

明治三年、四年、五年と、珍らしいたすけは次々に現われ、親神の思召は大和の国境を越えて、河内、摂津、山城、伊賀と、近隣の国々へ弘まった。

明治四年正月には、河内国の松村栄治郎が、信仰し始めた。

年が明けると明治五年、教祖は七十五歳になられる。この年六月の初め頃から七十五日の間、殻気を一切断って、火で炊いたものは何一つ召し上らず、たゞ水と少量の味醂と生野菜とを召し上るだけであった。断食を始められてから三十余日経った頃、約四里の道程を、若井村の松尾市兵衞宅へ歩いて赴かれた。いとも軽ろやかに、速く歩かれるので、お供の者は随いて行きかねる程であった。十余日間の滞在中も、殻気は一切召し上らなかったのに、お元気は少しも衰えず、この七十五日の断食の後、水を満した三斗樽を、いとも楽々と持ち運ばれた。

この年九月、別火別鍋と仰せられた。月日のやしろに坐す所以を、姿に現わし、人々の目に見せて、納得させようとの親心からである。

明治五年六月十八日には、梶本惣治郎妻おはるが、四十二歳で出直した。

この年、太陽暦が採用され、十二月三日を以て、明治六年一月一日と定められた。

明治六年、飯降伊蔵に命じてかんろだいの雛型を作られた。これは、高さ約六尺、直径約三寸の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ約三寸の六角の板の付いたものであった。出来てから暫く倉に納めてあったが、明治八年ぢば定めの後、こかん身上のお願づとめに当り、初めて元のぢばに据えられ、以後、人々は礼拝の目標とした。

同六年、秀司は庄屋敷村の戸長を勤めた。

この年には、河内国の山本利八、その子利三郎等が、信仰し始めた。

年が明けると明治七年、教祖は七十七歳になられる。第三号から第六号半ばに亙るおふでさきは、この年の筆で、急ぎに急がれる親神の思召の程を誌され、重大な時旬の迫って居る事を告げて、強く人々の心の成人を促された。

教祖の膝下に寄り集い、元旦に供えた鏡餅のお下りを、一同打揃うて賑やかに頂く事は、既に早くから行われて居たが、そのお供餅の量も次第に殖えて、明治七年には、七、八斗にも上った。この行事は、お節会と呼ばれて、後年、次第に盛んになった。

第三号に、

このたびハうちをふさめるしんばしら
はやくいれたい水をすまして 三 56

と、誌して、しんばしらを定めるよう急込まれた。当時、真之亮は九歳で、いつも櫟本村の宅からお屋敷へ通うて居たが、教祖は、家族同様に扱て、可愛がられた。まだ幼年でもあり、親神の思召が皆の人々に徹底して居た訳でもなく、嗣子として入籍した訳でもない。そこで、一日も早く名実共に、道の内を治める中心と定めるよう、急込まれた。

教祖は、かねて、かぐら面の制作を里方の兄前川杏助に依頼して居られた。杏助は生付き器用な人であったので、先ず粘土で型を作り、和紙を何枚も張り重ね、出来上りを待って粘土を取り出し、それを京都の塗師へ持って行って、漆をかけさせて完成した。月日の理を現わすものは、見事な一閑張の獅子面であった。こうして、お面が出来上って前川家に保管されて居た。

第四号には、

このひがらいつの事やとをもている
五月五日にたしかでゝくる 四3

それよりもをかけはぢまるこれをみよ
よるひるしれんよふになるぞや 四4

と、記され、親神の思召のまにまに、時旬の到来を待って、明治七年六月十八日(陰暦五月五日)、教祖は、秀司、飯降、仲田、辻等の人々を供として、前川家へ迎えに行かれた。

教祖は、出来上ったかぐら面を見て、

「見事に出来ました。これで陽気におつとめが出来ます。」

と、初めて一同面をつけて、お手振りを試みられた。そして又、

「いろいろお手数を掛けましたが、お礼の印に。」

と、仰せられて、差し出されたのが、おふでさき二冊に虫札十枚であった。この二冊は第三号と第四号であった。その表紙には共に、「明治七紀元ヨリ二千五百三十四年戌六月十八日夜ニ被下候」とあり、更に第三号には、「国常立之御神楽、前川家ニ長々御預り有、其神楽むかひニ見ゑ候節ニ、直筆貮冊持て外ニ虫札拾枚ト持参候て、庄屋敷中山ヨリ神様之人数御出被下明治七年六月十八日夜神楽本勤」と記し、第四号には、「外冊、神様直筆、七十七歳書」と記されて居る。初めて、お面をつけてお手振りされた様子と、お屋敷に保管される原本に対して、外冊と書き残した前川家の心遣いの程が偲ばれる。

かぐら面は出来た。お屋敷では月の二十六日には、お面をつけてかぐら、次にてをどりと、賑やかに本勤めを行い、毎日毎夜つとめの後では、お手振りの稽古を行った。

たん/\と六月になる事ならば
しよこまむりをするとをもへよ 四5

やがて、親里へ帰った証拠として、証拠守りが渡される。いちれつすますかんろだいの手は、翌八年に始まり、つとめ人衆が思召通り揃うのも、尚未来の事ながら、こうして、たすけづとめの仕度は、着々と親神の思召に近づいた。その頃、第五号に、

みへるのもなにの事やらしれまいな
高い山からをふくハんのみち 五 57

このみちをつけよふとてにしこしらへ
そばなるものハなにもしらすに 五 58

このとこへよびにくるのもでゝくるも
神のをもハくあるからの事 五 59

いよいよ世界に向って、高い山から往還の道をつける。警察の召喚も出張も、悉くこれ高山たすけを急込む親神の思召に他ならぬ、と、今後満十二年に亙り、約十八回に及ぶ御苦労を予言され、又、その中にこもる親神の思召の真実を宣べ明かされた。今や将に、教祖に対する留置投獄という形を以て、高山布教が始まろうとして居る。

明治七年陰暦十月の或る日、教祖から、仲田儀三郎、松尾市兵衞の両名に対して、

「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」

と、お言葉があった。両名は早速大和神社へ行って、言い付かった通り、どのような神様で御座りますか。と、問うた。神職は、当社は、由緒ある大社である。祭神は、記紀に記された通りである。と、滔々と述べ立てた。しからば、どのような御守護を下さる神様か。と、問うと、神職達は、守護の点については一言も答える事が出来なかった。

この時、大和神社の神職で原某という者が、そんな愚説を吐くのは、庄屋敷の婆さんであろう。怪しからん話だ。何か証拠になるものがあるのか。と問うた。両名は、持参したおふでさき第三号と第四号を出して、当方の神様は、かくかくの御守護を為し下さる、元の神・実の神である。
と、日頃教えられた通り述べ立てたところ、一寸それを貸せ。と言うた。
その二冊を貸すと、神職は、お前達は、百姓のように見えるが、帰ったら、老母に指を煮湯に入れさせよ。それが出来れば、こちらから東京へ願うて、結構なお宮を建てゝ渡す。出来ねば、元の百姓に精を出せ。と、言い、記紀に見えない神名を称えるは不都合であるから、これは弁難すべき要がある。石上神宮は、その氏子にかゝる異説を唱えさせるのは、取締り不充分の譏りを免れない。何れ日を更めて行くであろうから、この旨承知して居よ。と、いきまいた。

こうして二人が帰って来ると、折り返し大和神社の神職が人力車に乗ってお屋敷へやって来た。偽って、佐保之庄村の新立の者やが、急病ですから伺うて下され。と、言うたが、伺う事は出来ません。勝手に拝んでおかえり。と、答えると、そのまゝかえって行った。しかし、その翌日、石上神宮から神職達が五人連れでやって来て、秀司に向って問答を仕掛けた。秀司は、相手になっても仕方がないので、知らぬ。と、答えると、村の役迄する者が、知らぬ筈があるものか。と、しつこく迫って来たので、辻忠作が、昨日、大和神社へ行った者が居りますゆえ、こちらへ来て下され。と、話を引き取った。

この時、教祖は、親しく会うと仰せられ、衣服を改めた上、直々お会いなされ、親神の守護について詳しく説き諭された。神職達は、それが真なれば、学問は嘘か。と、尋ねると、教祖は、

「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい。」と仰せられた。

神職達は、あきれて、又来る。と、立ち去った。

その後、丹波市分署から巡査が来て、神前の幣帛、鏡、簾、金燈籠等を没収し、これを村役人に預けた。

石上神宮の神職との問答があって後、奈良県庁から、仲田、松尾、辻の三名に対して差紙がついた。三名が県庁へ出頭すると、社寺掛から、別々に取調べ、信心するに到った来歴を問い質した。その時、社寺掛の稲尾某は、十二月二十三日(陰暦十一月十五日)に山村御殿へ出張するから、そこへ教祖を連れて来い、と命じた。山村御殿とは円照寺の通称である。

円照寺は、奈良県添上郡帯解村大字山村にあり、その頃、伏見宮文秀女王の居られた所である。このような尊い所へ呼び出したなら、憑きものならば畏れて退散する、と、考えたからであろう。

教祖は、呼出しに応じ、いそ/\と出掛けられた。

お供したのは、辻忠作、仲田儀三郎、松尾市兵衞、柳本村の佐藤某、畑村の大東重兵衞の五名であった。途中、田部村の小字車返で、ふと躓いて下唇を怪我なさった。心配するお供の人々に対して、教祖は、

「下からせり上がる。」

と、仰せられ、少しも気になさらなかった。

円照寺へ着くと、午後二時頃から、円通殿と呼ばれる持仏堂で、中央に稲尾某が坐り、石上の大宮司と外に一名が立ち会い、主として稲尾某が取調べに当った。稲尾が、いかなる神ぞ。と、問うと、その言葉も終らない中に、神々しくも又響き渡るような声で、

「親神にとっては世界中は皆我が子、一列を一人も余さず救けたいのや。」

と、仰せられた。稲尾は、其方、真の神であるならば、此方が四、五日他を廻って来る間に、この身に罰をあてゝみよ。と、言った。

その途端、教祖は、

「火水風共に退くと知れ。」

と、言い放たれた。稲尾は、これは神経病や、大切にせよ。とて、医者に脈をとらすと、医者は、この人は、老体ではあるが、脈は十七、八歳の若さである。と、驚いた。

それから、今日は芸の有るだけをゆるす。と言われて、扇を一対借りて、辻の地で、仲田が手振りをして、陽気に四下り目まですますと もう宜しい。と、言うた。まだ、あと八下りあります。と、続けようとしたが、強って止められ、茶菓の馳走になって帰られた。

これから後、県庁は、お屋敷へ参拝人が出入りしないよう、厳重に取り締り始めた。

翌二十四日(陰暦十一月十六日)朝、教祖は、

にち/\に心つくしたものだねを
神がたしかにうけとりている

しんぢつに神のうけとるものだねわ
いつになりてもくさるめわなし

たん/\とこのものだねがはへたなら
これまつだいのこふきなるそや (おふでさき号外)

と、詠まれた。

二十五日(陰暦十一月十七日)になると、奈良中教院から、辻、仲田、松尾の三人を呼び出し、天理王という神は無い。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら、中教院を世話せよ。と、信仰を差止め、その上、お屋敷へやって来て、幣帛、鏡、簾等を没収した。

このふしの前後に誌された第六号には、

このよふの月日の心しんぢつを
しりたるものわさらにあるまい 六9

と、初めて月日と誌され、

このよふのしんぢつの神月日なり
あとなるわみなどふくなるそや 六 50

との御宣言と共に、「十二月廿一日よりはなし」とあるお歌(六 55)からは、これまで用いられた神の文字を月日と置きかえて、一段と親神の理を明かされた。

更に、十二月二十六日(陰暦十一月十八日)、教祖は、初めて赤衣を召された。この赤衣の理については、

いまゝでハみすのうぢらにいたるから
なによの事もみへてなけれど 六 61

このたびハあかいところいでたるから
とのよな事もすぐにみゑるで 六 62

このあかいきものをなんとをもている
なかに月日がこもりいるそや 六 63

と、お教え下された。神から月日へと文字をかえ、身に赤衣を召されて、自ら月日のやしろたるの理を闡明された。これ、ひとえに、子供の成人を促される親心からである。

これからは常に赤衣を召され、そのお召下ろしを証拠守りとして、弘く人々に渡された。これは、一名一名に授けられるお守りで、これを身につけて居ると、親神は、どのような悪難をも祓うて、大難は小難、小難は無難と守護される。

又、中教院の干渉に関しては、

月日よりつけたなまいをとりはらい
このさんねんをなんとをもうぞ 六 70

しんちづの月日りいふくさんねんわ
よいなる事でないとをもゑよ 六 71

と、たすけ一条の親心ゆえの、厳しいもどかしさと、猶予出来ない急込みの程を誌されて居る。

こうして、教祖は、赤衣を召して、自らが月日のやしろに坐す理を明らかに現わされた上、

一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井、と、四名の者に、直々、さづけの理を渡された。

これからハいたみなやみもてきものも
いきてをどりでみなたすけるで 六 106

このたすけいまゝでしらぬ事なれど
これからさきハためしゝてみよ 六 107

どのよふなむつかしきなるやまいでも
しんぢつなるのいきでたすける 六 108

さづけによって、どのような自由自在の守護をも現わし、心の底から病の根を切って、今迄にない珍しい真実のたすけをする、と教えられた。

これが、身上たすけのためにさづけの理を渡された始まりである。つゞいて、

五ッ いつものはなしかた、六ッ むごいことばをださぬよふ、七ッなんでもたすけやい、八ッ やしきのしまりかた、九ッ こゝでいつまでも、十ド ところのおさめかた、

と、数え歌に現わして理を教え、お屋敷に勤める人々の心の置き所を諭された。

この明治七年には、大和国園原村の西浦弥平、大阪の泉田藤吉、河内国の増井りん等が、信仰し始めた。

年が明けると明治八年。教祖は、親神の思召のまゝに、第六号半ばから第十一号までのおふでさきを誌され、心のふしんを急ぎ、つとめの完成を急込まれた。

当時、お屋敷では、前年に棟の上がった門屋の内造り最中であった。

この形の普請と共に、子供の心も次第に成人して、こゝに、親神は、かんろだいのぢば定めを急込まれた。

第八号には、

このさきハあゝちこゝちにみにさハり
月日ていりをするとをもゑよ 八 81

きたるならわがみさハりとひきやハせ
をなじ事ならはやくそふぢふ 八 82

そふぢしたところをあるきたちとまり
そのところよりかんろふだいを 八 83

親神は、人々の身上に障りを付けてお屋敷へ引き寄せられ、引き寄せられて帰って来た人々は、地面を掃き浄める。そして、清らかな地面を歩いて、立ち止った所がかんろだいのぢばである、と教えられ、

第九号には、

月日よりとびでた事をきいたなら
かんろふだいをばやくだすよふ 九 18

かんろたいすへるところをしいかりと
ぢばのところを心づもりを 九 19

これさいかたしかさだめてをいたなら
とんな事でもあふなきハない九 20

とて、世界治めに大切な、かんろだいの据わるべきぢばを、定めて置く事が肝腎である。これさえ定めて置けば、どんな事が起って来ても一寸も心配はない、と教えられた。

かくて、明治八年六月、かんろだいのぢば定めが行われた。

教祖は、前日に、

「明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように。」と、仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。

教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた処、皆、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止った。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなった。こうして、明治八年六月二十九日、陰暦の五月二十六日に、かんろだいのぢばが、初めて明らかに示された。時刻は昼頃であった。

第九号には、更に、かんろだいに就いて詳らかに教えられて居る。

かんろだいは、人間創造の証拠として元のぢばに据え、人間創造と成人の理を現わし、六角の台を、先ず二段、ついで十段、更に一段と、合わせて十三段重ねて、その総高さは八尺二寸、その上に五升入りの平鉢をのせ、天のあたえたるぢきもつを受ける台である。

第十号に入ると、

月日にハなんでもかでもしんぢつを
心しいかりとふりぬけるで 一〇 99

このみちを上ゑぬけたる事ならば
ぢうよぢざいのはたらきをする 一〇 100

その頃、教祖は、

「もう一度こわい所へ行く。案じな。」

と、仰せられて居た。迫害弾圧の時代を前にして、親心の真実を述べ、神一条の道を通る者の心構えを諭し、自由自在の守護を請け合うて、ふし毎に揺ぎ勝な、そばな者の心を励まされてのお言葉である。

明治八年夏の頃、永年、教祖と艱難苦労を共にしたこかんが身上障りとなり、容体は次第に重くなった。

月日よりひきうけするとゆうのもな
もとのいんねんあるからの事 一一 29

いんねんもどふゆう事であるならば
にんけんはぢめもとのどふぐや 一一 30

魂のいんねんにより、親神は、こかんを、いついつ迄も元のやしきに置いて、神一条の任に就かせようと思召されて居た。しかし、人間の目から見れば、一人の女性である。人々が、縁付くようにと勧めたのも、無理はなかった。こかんは、この理と情との間に悩んだ。

第十一号前半から中頃に亙り、この身上の障りを台として、人間思案に流れる事なく、どこどこ迄も親神の言葉に添い切り、親神に凭れ切って通り抜けよ、と懇々と諭されて居る。

更に、第十一号後半には、秀司夫妻に対して、

ことしから七十ねんハふう/\とも
やまずよハらすくらす事なら 一一 59

それよりのたのしみなるハあるまいな
これをまことにたのしゆんでいよ 一一 60

身上に徴をつけ、筆に誌して、元の親里につとめ人衆として引き寄せた、元のいんねんある人々を仕込み、たすけ一条の根本の道たるかんろだいのつとめの完成を急がれた。

明治八年夏から、秀司並びにこかんの身上障りと、門屋の内造りとが、立て合うた上に、九月二十四日(陰暦八月二十五日)には、教祖と秀司に対して、奈良県庁から差紙がついた。明日出頭せよ、との呼出しである。

教祖は、何の躊躇もなくいそいそと出掛けられた。教祖の付添いとしてはおまさ、折から患って居た秀司の代理としては、辻忠作が出頭した。

足達源四郎は村役人として同道した。こうして、教祖は、初めて奈良へ御苦労下され、種々と取調べを受けられた。

抑々、天理王命というような神は無い。一体どこに典拠が有るのか。

何故病気が治るのか。などと質問した。それは山村御殿の時と変らなかったが、辻忠作に向っては、当時普請中の中南の門屋に就いて、経費の出所を訊いたので、これに対して忠作は、中山様より出された。と、答えた。

教祖に対しても、種々と難問を吹き掛けた。教祖は、これに対して一一、明快に諭されたが、当時の役人達には、形の普請が心のふしんの現われである事など、とても了解できなかった。

九月二十七日(陰暦八月二十八日)、こかんが三十九歳で出直した。

この報せに、御苦労中の教祖は、特別に許可を受けて、人力車で帰られると、直ぐ、冷くなったこかんの遺骸を撫でて、

「可愛相に。早く帰っておいで。」

と、優しく犒われた。

九月(陰暦八月)の取調べの結果は、その年の十二月になって、教祖に対し、二十五銭の科料に処すと通知があった。

門屋は、八年一杯に内造りが出来た。教祖は、北の上段の間からこゝへ移られ、その西側の十畳の部屋をお居間として、日夜寄り来る人々に親神の思召を伝えられた。

年が明けると明治九年。絶え間なく鋭い監視の目を注いで居た当局の取締りが、一段と厳重になったので、おそばの人々は、多くの人々が寄って来ても、警察沙汰にならずに済む工夫は無いものか、と、智慧を絞った結果、風呂と宿屋の鑑札を受けようという事になった。が、この時、教祖は、「親神が途中で退く。」と、厳しくお止めになった。しかし、このまゝにして置けば、教祖に迷惑のかゝるのは火を賭るよりも明らかである。戸主としての責任上、又、子として親を思う真心から、秀司は、我が身どうなってもとの思いで、春の初め頃、堺県へ出掛けて許可を得た。(註一)お供したのは、桝井伊三郎であった。

しかし、このような人間思案は、決して親神の思召に添う所以ではない。

この年、八月十七日(陰暦六月二十八日)には、大和国小坂村の松田利平の願によって、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎等の人々が、雨乞に出張した。

この年には、河内国の板倉槌三郎、大和国園原村の上田嘉治郎、その子ナライト等が、信仰し始めた。

翌明治十年には、年の初めから、教祖自ら三曲の鳴物を教えられた。

最初にお教え頂いたのは、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、控は増井とみゑであった。

明治十年二月五日(陰暦、九年十二月二十三日)、たまへが、秀司の一子として平等寺村で生れた。

このたびのはらみているをうちなるわ
なんとをもふてまちているやら 七 65

こればかり人なみやとハをもうなよ
なんでも月日ゑらいをもわく 七 66

なわたまへはやくみたいとをもうなら
月日をしへるてゑをしいかり 七 72

たまへの誕生は、かねてから思召を述べて、待ち望んで居られた処である。教祖は、西尾ゆき等を供として、親しく平等寺村の小東家へ赴かれ、嫡孫の出生を祝われた。

この年五月十四日(陰暦四月二日)には、丹波市村事務所の沢田義太郎が、お屋敷へやって来て、神前の物を封印した。秀司が、平等寺村の小東家へ行って不在中の出来事である。

つづいて、五月二十一日(陰暦四月九日)、奈良警察署から秀司宛に召喚状が来た。召喚に応じて出頭した秀司は、四十日間留め置かれた上、罰金に処せられ、帰って来たのは、六月二十九日(陰暦五月十九日)であった。その理由は、杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り、これを、秀司から貰ったものである。と、警察署へ、誣告した為である。

明治十年二月には、西南の役が起った。第十三号に、

せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや 一三 43

高山にくらしているもたにそこに
くらしているもをなしたまひい 一三 45

それよりもたん/\つかうどふぐわな
みな月日よりかしものなるぞ 一三 46

世界中の人間は、皆親神の子供、互に真実の兄弟であり、他人というものは一人もない。高山谷底の差別ない魂を授けられて居る。人間の身体は親神からのかしものである、と諭され、つづいて、

それしらすみなにんけんの心でわ
なんどたかびくあるとをもふて 一三 47

月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ
どふぞしいかりしよちさしたい 一三 48

これさいかたしかにしよちしたならば
むほんのねへわきれてしまうに 一三 49

一列平等の真実を知らず、身上かりものの理を悟らず、骨肉互に鎬を削るの愚を歎かれ、親神の望みは、兄弟和楽の平和にあり、かんろだいのつとめは世界の平和を願うつとめである、と教えられた。

この年には、大和国北檜垣村の岡田与之助(後の宮森与三郎)等が、信仰し始めた。

註一 明治九年四月十八日、奈良県は廃止され、堺県に合併さる。

第七章 ふしから芽が出る第七章 ふしから芽が出る