ご挨拶
日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に絶大なるお力添えを賜り、誠に有難うございます。
去る10月26日、コロナ以前のように礼拝場が参拝者で埋め尽くされる中、立教185年秋季大祭が中山大亮様祭主のもと、厳かに執り行われました。
大亮様は祭文奏上において「教会長、ようぼく一同は秋の大祭に当たり、立教の元一日に思いを致し、教祖のひながたを手本としてたすけ一条の御用に邁進する決意でございます─」と誓われ、また「教会百四十祭に向かう三年千日年祭活動を目前に控え、全教の心を一つに揃えて年祭活動を進めるために本日『諭達第四号』を発布し、年祭の意義を徹底していきたいと存じます─」と奏上されました。
続いてかぐら・てをどりが勤められた後、御身上を頂かれてより四年数か月ぶりに真柱様が神殿講話をおつとめ下さるアナウンスが流れた時、殿内に驚きとそして感動が沸き起こり、私自身も魂が打ち震え、涙で目の前が霞む中、固唾を飲んで神殿講話を拝聴させて頂きました。
神殿上段に進まれた中山善司真柱様は教祖百四十年祭活動の指針となる諭達第四号を発布され、読み上げられた後、「年祭を勤める意味は昔から変わらない。勤める人の気持ちは定命を縮めて身を隠してまでも子供の成人をお急き込み下されたをやの思いを思い起して、年祭を目標に仕切って成人の道を歩み、その実をもってお応えしようと勤めてきたことにおいては変わりはなかったし、その基本精神は今後も変わってはならない」と述べられました。
その上で、時の流れとともに年祭を勤める人の顔触れが変わっていく中で「当然のことながら、年祭の意味や、どういう気持ちで勤めるか分からない人もいる」と指摘、「全教が心を揃えるためにも、知らない人は年祭の意味を知り、をやの思いに添わせてもらおうと積極的に歩む気持ちになってもらうための材料として諭達を利用してもらいたい」と話されました。
本年も残り二か月を切った今、諭達を心に刻んで年祭活動に突入するとともに、今月末に予定される名田、兵神のおぢばがえり団参、年頭の心定めの完遂、そして本年最後の十二月の仕切りの御用に向かって懸命に務めさせて頂きましょう。
今月も何卒宜しくお願い致します。
運命がたすかる理話
立教178年10月29日朝席のおはなしより
① 低いこころ
自分はこれまで、損なことは出来るだけ避けて、勝って勝って勝ち抜こうとしてきた人生ではなかったかと思います。
実はその時点で、運命はもう負けているのでした。
自分の性格がわが人生をかたちどり幸せも不幸も自分の心が招き寄せ、表面に見せている姿ではなく、瞬間的に条件反射で出てくる心、腹の底の本音に応じて親神様より貸し与えられる丁度よいかりものの運命であると思われます。
真にたすかるお道の信仰では、自分にとって一番しにくい所に取り組むことが大事であると思われます。
本気でやりきれば代々積み重ねてきた悪いんねんを納消できることでしょう。
その為にまず、心と頭を低くすることが第一であると教えて頂きました。
② おたすけ
人をたすける理によって、だんだんと魂に徳を頂き、どうしても変えられなかった自分自身の癖性分が変わり、おたすけの相手の姿・いんねんの在り様を通して、自分の癖性分に気づかせて頂き、わがいんねんから守って頂けます。
まさに“人をたすけて我が身たすかる”
③ おつくし
尽くし運びは、人生の危ない時のセーフティボードであると思ってきました。
自分のような気ままでいんねんの深い者でも親神様に繋がせて頂くことによって、こうしてお道において頂き、結構に通らせて頂いているのだと確信しております。
金銭というものは人格が出てきます。
一の切り「命」、二の切り「金銭」ですから、金銭にどう向き合い繋いでゆくかが、その方の人格にひびくように思われます。
ですから、おたすけでお供えのことをお伝えしたときに、その人の性格がはっきりと表れます。
おつくしを嫌がってできない方はここ一番というところで、すぐにこける方が多く、尽くした理・運んだ理は、どこへもいかず、自分が迷いそうなとき、狂いそうなときに、セーフティボードとなって、ちゃんと守って頂けるのです。
④ 親の声
長くお道を通らせて頂く中に、周囲の人たちの姿にはっきりと答えが出ています。
その時自分にとって都合が悪かったとしても泣く泣くでも親の声を守りきった方々は、現在素晴らしい信仰の姿を見せて頂いています。
親の声を聞くということは種ですから・・・20年30年育ったら一粒万倍です。
親の声を聞いてする苦労は一時限り、しかし親の声を外して出てくる苦労は一生なのです。
⑤ 真実の道
このお道は“この世治める真実の道”です。
私たちがさせて頂いているおたすけとは、単なる宗教活動や布教活動ではございません。
その人の魂に親神様の大恩が治まり、自らの癖性分を認識し、人さまのおたすけを通して前生のいんねんを悟って頂けるよう、導かせて頂くのです。
己の身の程を知り、たすけられ生かされているご恩に目覚めて、御恩報じに徹しきる・・・そうなることが、 お道の本当のたすかりであり、そこにこそ陽気暮らしがあり、人間としての「魂の出世」があると思われます。
⑥ いんねんの自覚
いんねんの自覚がなければ、通り切れません。
つまり自分の位置がわからないから、裏付けもなしに
「これだけ尽くせば、もう十分、もう大丈夫。」
と油断と甘えで、ウカウカ通ってしまいます。
逆に自分の位置が分かってくれば、お陰の心が湧いてきて、ご恩を返さずにはおれないという心境になって参ります。
よく「いんねん・いんねん…」と言って先祖のせいにする方もいらっしゃいますが、決してそうではありません。
先祖は過去の自分であり、自分が未来の先祖ですから、いま生かされている今日の自分の中に、全ての種があると思わせて頂きます。
⑦ 道の値打ち
世間から、天理教を信仰して阿呆や馬鹿や…と 笑われ罵られている時に、その家の根が伸び栄えています。
成らん中、尽くし運んで、たんのうして根に肥やしを置いているようなものです。
やがて時が来れば、“ほんに、なるほど”という日が、必ず訪れます。
腹をくくっておたすけをやっている当人は、やればやるほど教祖の理によってどんどん喜びが湧いてきますから、周りから何と言われようと、その値打ちと意味が身をもって分かって参りますので、やらずにはおれなくなるのです。
⑧ 道の苦労
このように心の底から勇んで、おやさま、おやさま…と念じ、ひながたを目標に「教祖のご苦労に比べれば…」とつとめさせて頂く中に、人さまをおたすけさせて頂く苦労も、親に尽くさせて頂く苦労も、先々の楽しみとなって参ります。
東本(大教会)初代の中川よし先生は、
「この道の上でどんな苦労があろうとも、うしろから金の玉が 転がって追いかけて来るような喜びがあった…」
と仰られました。
どうか皆さま、この教祖年祭の旬に、苦労を教祖に お供えさせて頂く仕切りとさせて頂きましょう!
低い心でにをいがけ優しい心でおたすけを
立教185年10月18日 朝席のおはなしより
負けて通るがにをいがけ
日々私たちがさせて頂いているにをいがけは、まさに 負けに行ってるようなものですね。
私たち布教師は負けて負けて負け通しでいいんです。
私も歩き始めたばかりの頃は、無下に断られたりすると「せっかくいい話をしに来ているのに、何でそんな断り方をするんや!」とムカついては玄関のドアを蹴っ飛ばして帰ったり、ある時は他宗教の方とつまらない論争をしてみたり、「若いくせに働け!」などと言われるとカチンッときては、平気で言い返すような負けん気の強いダメダメ男でした。
しかしこんな私のような高慢な者でも、 寿美子先生の理、天浦の理、そして教祖存命の理によって、自然のうちに徳化され、にをいがけの本当の意義を仕込んで頂き、その価値に気づいてからは低い心でにをいがけに歩けるようになりました。
そして頭の高い私は形からでももっと低くならせて頂こうと、自然発生的に土下座布教をするようになり、別席やお供えのお願いをさせて頂くたびに、あほになって負けて通ることを身につけさせて頂きました。
豹変するが教祖のお伴
郡山(大教会)初代の平野楢蔵先生も、「恩地楢」と恐れられていたやくざの大親分だった頃は、「こんなはした金、受け取れるか!」と十両の小判を足蹴にしていましたが、教祖に命をたすけて頂いてからというもの、布教伝道に駆けずり回る中、おたすけした方からのほんのわずかなお賽銭を「もったいない…ありがたい!」と恭しく押し頂かれ るほど豹変さたそうです。
今では私も教祖の理によって、にをいがけで罵倒されたら「ありがとうございます!」
通報されたら「すいませんでした!」、塩を撒かれて水をぶっかけられたら「結構や!」と負けて負けて歩かせて頂く中に、私は本来ではあり得ない有難い人生に変えて頂きました。
低く優しい心が教祖の道
きっと自分の事をかわいくないという人はいないでしょう。
しかし本当に自分がかわいいと思うならば、自分を捨てないと駄目です。
我が身我が家にとらわれず、世のため、人のため、道のため、親のために尽くしていく、そのためには自分の都合・自分の思いを抑えることです。
そういう人生が結局は自分の人生を大事に通っていることになり、低い優しい心になって通らせてもらうことがこの教祖の道を一番の大事に通っていることになるのです。
教祖百四十年祭の年祭活動に向かって成人させて頂きましょう。
月間よろこびスケジュール
にをいがけ・おたすけの成果
別 席 者 | 6名 |
よ う ぼ く | 1名 |