ご挨拶
本年最後の12月の仕切りたすけの根源たるぢばへ誠真実を伏せ込もう!
日々はそれぞれの持ち場立場において、八生兵庫分教会の上に誠真実を賜り、誠に有難うございます。
去る10月2日、この上ない晴天の御守護のもと、待ちに待った創立十周年記念祭が兵神大教会長様はじめ上級の親々のご参拝を頂く中、132人の参拝者と共に盛大に勤めさせて頂きました。
緊張の中にも、勇んだおつとめを勤め終えた後、大教会長様より「おたすけに誠意を尽くすこと」とのお言葉、また「誠真実」の御揮毫を賜りました。
直会も終始なごやかで、素晴らしい記念祭を勤めさせて頂くことができましたことを重ねて御礼申し上げます。
更に、10月26日、コロナ渦のため依然として参拝者が制限された中ではありましたが、立教183年御本部 秋季大祭が中山大亮様を祭主に厳かにかつ陽気に執り行われました。
祭文奏上に続いてかぐら、てをどりが勤められた後、神殿講話に立たれた内統領宮森与一郎本部員は、新型コロナウイルスの感染拡大により神殿参拝がままならず、多くの行事が中止を余儀なくされた今年を振り返り今後は義務的でなく、自分にできる務めは何かを考えて 行動すること、また我身我家を忘れ、たんのうの心・優しい心をもっておたすけに奔走すること、また、苦労を楽しんで通ること、そして、願い出た最初の心を忘れないこと等、コロナ以後の私達の歩み方について4つのポイントに 分けてご教示くださいました。
そして後世の人からコロナの時代に我々の先輩は頑張ったと言ってもらえるような務めを切望されて講話を締めくくられました。
今後は、内統領先生、大教会長様のお言葉を胸に刻み、本年最後の12月の仕切り、そして天浦創立80周年記念祭に向かって務めさせて頂きましょう。
今月も何卒よろしくお願い申し上げます。
天理教八生兵庫分教会 西村一郎
にをいがけ・おたすけの成果
別 席 者 | 4名 |
よ う ぼ く | 3名 |
誠意を尽くし さあ おたすけ
清水 慶政 兵神大教会長様
良いおつとめだったなぁ
本日の記念祭のおつとめは、「本当に良いおつとめだったなぁ」と感激をさせて頂いております。
さぞ、この日に向かってそれぞれ 一生懸命修練を積み重ねてきて下さったのではないかと思います。
本当にご苦労様でございました。
しかし、これで満足することなく、更に高みを目指して、引き続き頑張っていって頂きたいとお願い申し上げたいと思います。
おつとめの良し悪し
このおつとめの良し悪しということにつきましては、これまでにもいろんな事が言われてきたように思います。
しかし、ここで忘れてはならないことが一つありまして、それは このおつとめの良し悪しというものを判断されるのは、人ではないということです。
それは真柱様でも、私でもありません。
上級の会長さんでもない。
それは、他ならない親神様・教祖がご判断なさるのだということ、これを間違えてはいけないと思うのです。
親神様に対する誠意
その上でおつとめの良し悪しは親神様に対する私たちの「誠意」にかかっているのだということを私は声を大にして皆様に申し上げたいと思うのです。
違う言い方をすれば“誠真実”。
「誠意」というのは誠に意識の意と書きますが、誠、つまり、誠真実といわれるものだと思うのですが、その「誠意」こそが私は大事だと思うのです。
どういうことかと言いますと、例えばおつとめをさせて頂く前には、神床や上段、またお道具を綺麗に浄めますよね。
別に汚れていなければそんなの浄める必要もないようなものですけれども、しかし、おつとめをつとめる前には、皆さん一生懸命に綺麗に神床も上段もそしてお道具も浄められると思います。
それがまさに「誠意」だと思うのですね。
「汚れてないからいいや。」ということではなくて「これからおつとめを勤めさせて頂く─普段のままでは親神様に申し訳がないから綺麗にさせてもらおう、清々しくおつとめをつとめさせて頂きたい。だから浄めさせて頂こう。」
まさにそれが「誠意」ということではないのかと思うのです。
「親神様に勇んで頂きたい、喜んで頂きたい。」そこから、何かをさせて頂くこと、心を込めさせて頂くことが「誠意」ではないかと思うのですね。
献撰における誠意
それから、開扉をして献饌をさせてもらいます。
献饌は、どうせ祭典後に信者さん方に配るわけですから、野菜は出来るだけ大根等も切らずにおいた方が長持ちしますし、玉ねぎもひょっとしたら皮を剥かない方が長持ちするかもしれないんですね。
それからピーマンも袋入りで売られているから、袋から出さずにお供えした方が後々配り易いのでは ないかというところですが、しかし、それをせずにちゃんと袋から出して一個一個磨いて、フルーツならばシールを剥がして、わざわざ綺麗に整えてお供えをするんですね。
これも神様は召し上がられないけれども、神様にその心をお供えさせてもらいたいということで、神様にお詫びをさせて頂く、これも「誠意」だと思うんです。
おつとめにおける誠意
更におつとめにあたって稽古をして臨む。
これも「私はちゃんと出来ますから、練習なんか必要ありません。」と思っても、間違えたらあかんと思って事前に確認の稽古をして臨む。
これも「誠意」だと思うんです。
最初からよく考えてみたら、天理教の教会の神殿で行う 儀式や作法というのは、ほとんどが神様への「誠意」を表す為に行われるものとして考えられたものだとわかるんです。
わざわざこんなことしなくていい…まどろっこしいと思うようなことは沢山あります。
最大の神様への敬意を表す為にそういうことをされている。
そういった発想で考えられたものばかりではないかと、私は思うわけであります。
親神様の御守護のおかげ
では、それはなぜなのか、その答えは簡単なことです。
親神様の御守護のおかげで私たちの命も生活もあるのです。
だから敬意、そして誠意を示すわけであります。
或いは、親神様の御守護やお働きにお縋りして、たすけて頂こうと願うからだと思います。
人間社会でも同じであります。
誰かに何かお願いを聞いてもらおうと思うならば、そのお願いに対して相応の対価を支払うか、もしくは心を込めて、「誠意」を込めて、お願いをするのではないでしょうか。
またそれより他に方法はないかと思うんですね。
そうやって考えたら、神様にたすけて頂こう何か働いて頂こうと思うなら、やはり最大限の「誠意」をもって親神様に向かわせて頂く、その心を受け取って頂くということが大事なのではないかと思うんです。
思召しに添いきる姿勢
このおつとめのお歌のお地という言葉も教祖によって8ケ月にわたって刻限刻限神様が教祖のお口を通して教えられたものであります。
そしてこのお手振りの手、これも十二下りまで全部教えるのに、約三年間かかったということなんです。
いっぺんに教えれば多分三年間もかからなかったと思うんですが、少しずつ少しずつ、教祖が三回手本を踊って下さったんです。
それを三人は真似をする、三人はそれを見て覚える、それを繰り返して約三年かかって教えられたものなんだそうですね。
全部、教祖が御みずから手本を示して、そして言葉を通して、教え聞かされたものなんです。
みんなにどういうふうに歌ったらよいか歌ってみなさい、踊ってみなさいと仰るけども、だけど全部採用されなかった。
全部教祖が御みずからお教え下されたってことなんですね。
そうやって考えますと、女鳴り物もそう、教祖が御みずからお教え下さった。
多分男鳴り物も記録は ありませんけれども恐らく教祖が教えて下さったんではないかと思うんですね。そうやって考えると、全部教祖が 御みずからお教え下さった…それがこのおつとめなんです。
そうやって考えたら、このおつとめの手振りも歌も鳴り物の演奏の仕方も、全部神様直々の教えなんだということなんですね。
そこに神様の想いがこもってるということなんです。
そうやって考えましたら、神様が教えてくれた通り、教祖が教えてくれた通りに勤めるということがとっても大事なことではないかと 私は思います。
神一条の心ならどんな守護もする
おふでさきに、
つとめさいちがハんよふになあたなら天のあたゑもちがう事なし
おふでさき10号34
という言葉がありますけども、おつとめさえ違わんようになったなら、つまり神様の思し召し通りになったならば、天の与えも違うことなし、恐らく「どんな守護もするぞ」という事を仰って下さっていると思うんです。
そうやって考えますと、私たちはおつとめに向かって一番の「誠意」といわれているのはおつとめを教祖の御教え通りにつとめること、「どこまでも親神様の思し召しに添えるようにならせてもらおう、親神様の思し召しに近付かせてもらおう」という姿勢こそが、神様に対する「誠意」ということでは ないかなと思います。
つまり、神一条、ということなんですね。
神一条というのは、親神様、教祖のご存在、お働きをどこまでも信じ、疑わないこと、そして、どこまでも添いきること、これが神一条と言われる処であります。
親神様は、神一条の心なら必ず受け取ってお働き下さるということを約束下さっています。
どうぞ原典のおふでさき・みかぐらうた・おさしづを見て頂ければわかると思いますが、神一条-これを神様はお望みです。
「神一条の心定めてくれるなら、どんな守護も、どんな中も連れて通ってやる」ということを仰って下さってるんですね。
そうやって考えますと、私たちはおつとめをつとめるときに出せる「誠意」は、どこまでもその思し召し、神様の教えに添わせてもらうという心と姿勢に他ならないと思います。
神一条=誠意
おつとめはそんなに難しくはありません。
頑張ればすぐ覚えれてしまいます。
ですから鳴り物でもおてふりでも、だんだん飽きてくるんです。
飽きてくるとどうなるかというと、何か格好よく勤めようとか、賑やかに勤めようとか、勇み心を表そうと-そうなってきてしまうんですけれども、そうなるとどうでしょうか?
神様の目から見てどうか、それぞれが勝手勝手の思いで勤めたら、そこに理はあるのか…?ということなんですね。
神様のお望みは神一条だと思うんですね。
それから考えますと、教えられた通りに、そして、如何にして神様に私たちの「誠意」を尽くすのか、おつとめを勤める時の服装ひとつもそう、それに向かう心構え、おつとめを勤めさせて頂くまでのプロセスもそうだと思います。
神様に対して誠意を尽くす事が、もうどこまでもできる と思うんです。
それをどれだけこのおつとめに込められるか、これによってどんどんと神様の受け取りは変わってきます。
かなり、八生兵庫のおつとめは、いい感じになってきてると思いますが、これで満足することなく、もっともっとおつとめにどれだけの「誠意」を込められるか、神様にお受け取り頂けるかということを目指して、おつとめ頂きたいと思います。
昔と今と何が違うのか?
さて、現在天理教の教勢が随分と低迷しておりまして、多くの教会が非常に難しい状況になってきております。
こちらの八生兵庫分教会は非常に新しい教会でありますが、こんなに賑やかに勇んでつとめておられるにも拘わらず、一方で、よその教会では存続が段々と厳しい状況になっているところもあります。
その道中には、戦争の中も通られて、また地震や洪水などの自然の猛威にさらされた日もあったと思います。
更にはそれぞれのやむにやまれぬ事情を抱える中で信者さんが減少し、やむを得ず今日の姿に至った経緯がありますので、ある意味、仕方のないことだったのかもしれません。
しかしどの教会も、昔はこの八生兵庫分教会と同じように賑やかな教会だったに違いありません。
じゃあ、昔と今と、一体何が一番違うのでしょうか?
それは、おたすけの数だと思うんです。
この八生兵庫分教会が特に大切にして下さっているにをいがけやおつくしは、その種 蒔きだと、私は思います。
すべては種蒔き・一粒万倍
八生兵庫の会長さんとにおいがけに歩いている時にも、「すべては種蒔きなんだ・・・」と言っておられましたが、どこからそれが芽生えてくるかはわかりませんが、とにかく種を伏せこんでゆくということですね。
それがやがて何かの形となって、生えてくる。
つまりご守護という形になって現れてくる-そういうものだと思うんですが、じゃあ、それをどこで見せて頂くのか・・・それがおたすけだと思うんです。
おたすけがあるからこそ、ご守護があり、たすかりがあり、おたすけがあるからこそ、不思議があり、感激があるんだと、私は思うんです。
折角、種を蒔いても、自分の為に全部取り込んでしまったらそれっきりです。
しかしそれを人様のたすかりの為にこの種を使わせてもらったら、「やっぱり神さんはおられるんだ!」という物凄い不思議な感激が訪れるだろうと思うんです。それはまさに一粒万倍となって生えてくるものだと思います。
八生兵庫の皆様方は、日々種蒔きに一生懸命つとめて下さっていますので、十分種は植わって いることと思います。
やっぱり おたすけ!
この道というのは、代を重ねていくと、どんどん結構になってくる道だと思います。
だから皆様もこれからどんどん結構になってくるはずです。
だけど結構になると、有難みが薄れて、結構すぎてどんどん白けてきます。
そうなってくると神様の存在が分からなくなるんです。
何とかたすけて頂きたい、と思ってるうちは神様を感じ易いんですけども、当り前のように結構になっていくと・・・神様がおられなくても、自分のお陰じゃないか…?
なんていう勘違いをしてしまう。そうなると、折角一生懸命種を蒔き、伏せこんで下さった苦労が全て水の泡になってしまいます。
ですから、やっぱり私たちはおたすけをさせてもらわな あかんと思うんです。
人様のたすかりを願って、人様のおたすけに関わらせてもらう事によってでしか、神様のお働きや不思議なご守護に接することが出来ないと思います。
おたすけは、決して難しいことばかりではなくて、世の中の人々の日常的な困り事や悩み事に寄り添って手助けをすることも、おたすけの入り口になるかも知れません。
おたすけの入り口
自分の時間と自分にお与え頂いているものの一部を誰かのために使うことが出来れば、それは立派なおたすけに繋がっていくだろうと思うんです。
大切な自分の時間を捧げて「一緒に区役所に行ってあげるよ。」
意外と言えそうで言えない、自分がお与え頂いた物やお金を人様のたすかりの為によく「身銭を切って…」と言いますが、なかなか出来そうで出来ないことです。
自分の時間と自分にお与え頂いているものの一部を人の為に使うことができる・・これが、おたすけの入り口なんです。
その心さえあれば、あとは神様が足りない、部分は足して下さり、そこに神様に対する誠意があれば、きっと驚くような不思議自由用の働きを見せて下さいます。
それによって私たちは「あぁ本当に神様がいらして、私たちをお思い下さってるんだなあ。」という実感を得ることが出来ると思うんです。
そしてこの 信仰に自信を持てるようになってくると思います。
それが無ければ、信仰というものはどんどんと白けていって、こんな信仰やらなくてもいいんじゃないかと、元の木阿弥の姿となって、閉ざされた運命に戻っていってしまうのです。
それが心配だから、神様は「人をたすけて我が身たすかる」と教えてくれまして、とにかく「人をたすけなされや。優しい心になりなされや。癖性分を取りなされや。」とお導き下さっているのです。
生き甲斐のある人生
親神様のお望みは、他でもない「陽気ぐらし」であります。
全ての人間の親である親神様の一番の願いは、全ての子供が自分の足で自立できるように成人して、人を支えることの出来る人になること。
更には、世界中の子供たちが兄弟姉妹のように、お互いに足りないところは、補い合い足し合って、支え合う姿がご覧になりたいんだと思います。
世の中には、つまづいて転んでいる人もいるし、生まれながらにハンディキャップを持って、心に大きな荷物を持たされている人もいます。
そして、立ち上がれないでいる人もいると思います。
そういう方に寄り添って、何とか、まずは自分の足で立って頂く。
なぜならよく「人と人は支え合うから人という」と言いますが、支え合っていたら、いつか疲れてしまうと思います。
そして、どちらかが疲れて倒れてしまったら、どちらも倒れてしまう。
それでは、前に進むことが出来ません。
やはりまずは、一人ひとりが自分の足で立つ。
もちろん、人に支えてもらってもいいと思います。手伝ってもらってもいいと思うけれども、まずは、自分の足で立って歩めるということが幸せというものの一歩になると思います。
「何が幸せかな?財産?裕福なことが幸せかな?子沢山 なことが幸せかな?分からない人も沢山いると思いますが、私は、生き甲斐だと思います。
「生き甲斐のある人生」を歩めることが一番の幸せの条件かなと思います。
真にたすかるための生き方
そうして考えたら、まずは、自分の足で立つことが出来る。
そして、人を支えることすら出来る。
そういう風になれるということが、本当に素晴らしい人生を歩む条件になるのかと思います。
そのために私たちは、補い合い足し合い、お手伝いをさせてもらうのではないかと思うんです。
そういう姿を神様はご覧になりたいんだと思召されているのではないかと思うんです。
そのために、御教えやひながたという手本があるのだと思います。
教祖の御教えや、この道の信仰というのは私たちに「真にたすかるための生き方」をお示し下さったものであります。
そこから考えますと、おたすけというのはまずは、困りごとや悩みごとを抱えている人や、自分の足で立つことの難しい人に寄り添ってサポートをしていく─。
親神様・教祖の御教えを通して、真にたすかるための生き方を身に付けてもらえるようにサポートしていく─。 これが、おたすけと言えるのではないかと思います。
そうして考えたら、皆さんに出来ることがあるのではないかなと思います。
ましてや、おさづけを戴いているよふぼくならば、まずは身上を負って苦しんでいる人には、おさづけを取り次がせて頂き、心を明るく持って頂いて、前を向かせて歩んで頂くお手伝いができるのではないかなと思います。
その上で、真にたすかる生き方、これを、教祖の御教えやひながたから確かめさせて頂くということが、おたすけに つながるのではないかと思います。
ここにこそ、親神様・ 教祖の不思議なお働きがあり、真の喜びの姿があるのでは ないかと感じています。
おたすけの感激を求めて
おそらく、今八生兵庫分教会には、会長さん・奥さん、素晴らしい布教師のみなさんを中心に、おたすけが溢れていると思うんですね。
ぜひ、そのまま進んで行って頂き、今よりもっともっと沢山の方が、おたすけに関わらせて頂いて、おたすけの為の苦労や喜びを自ら味わって頂き、その先にある不思議な感激を味わって頂きたいと思い ます。
そうしてゆけば、八生兵庫の道は、末代続くものになっていくのではないかと思います。
勿論、八生兵庫の皆さんだけに、そのことをしてくれと言うわけではありません。
私たち夫婦も、一生懸命に頑張らせ頂きます。
共々に同じ志を持つ同志として、これから一生懸命おたすけの感激-、それを求めて歩ませて頂きたいと思います。
八生兵庫分教会の十周年という輝かしい節目に際しまして、その辺のことをご相談申し上げまして、今日の私のお話とさせて頂きたいと思います。
最後までご清聴頂きまして誠にありがとうございました。
月間よろこびスケジュール
日 程 日 付 | 行 事 | 時 間 |
11月3日(火) | 天浦おつとめまなび総会 | 9:30受付開始 |
4日(水) | 天浦分教会 霊祭 | 10:00執行 |
7日(土) | 婦人のつどい | 10:00 神殿集合 |
8日(日) | 八生兵庫別席団参① | 9:00 兵庫出発 |
10日(火) | 大教会伏せ込みひのきしん | 9:30 大教会神殿集合 |
天浦分教会 月次祭 前日ひのきしん | 14:00 天浦神殿集合 | |
11日(水) 土) | 天浦分教会 月次祭 | 9:30執行 |
12日(木) ( 土) | 名田分教会 月次祭 | 10:00執行 |
13日(金) () | 《 西区布教 》 | 9:30 神殿集合 |
14日(土) ( 土) | 《 兵庫布教 》 | 10:00 神殿集合 |
15日(日) | 琴緒分教会 月次祭 | 11:00 執行 |
16日(月) | 《 松山布教 》 | 5:30兵庫発 |
18日(水) | 八生兵庫分教会 霊祭 | 10:00神殿集合 |
教理勉強会 | ||
20日(金)ん) | 《 天浦分教会布教実習会 》 | 10:30神殿集合 |
21日(土) | 大教会月次祭 前々日ひのきしん | 9:30 大教会神殿集合 |
22日(日) | 《 垂水布教 》 | 9:30 神殿集合 |
23日(月) | 兵神大教会 月次祭/遥拝式 | 10:00執行 |
24日(火) | 《 西宮布教 》 | 9:30 神殿集合 |
25日(水) | 八生兵庫別席団参② | 9:00 兵庫出発 |
26日(木) | 御本部月次祭/遥拝式 祭 | 8:30神殿集合 |
27日(金) | 《 中央区布教 》 | 9:30 神殿集合 |
29日(日) ) ) | 八生兵庫別席団参③ | 9:00 兵庫出発 |
12月1日(火) | 八生兵庫分教会 月次祭 前日ひのきしん | |
2日(水) | 八生兵庫分教会 月次祭 | 10:00執行 |