どうでもという精神 とは?
原典おさしづに
どうでもという精神うすいから、人の心にながれ、人の心にながれてこの道たつてゆくかいかんかよく聞分け
(明治34・5・25)
どうでもかうでもあとへひくにもひけん、向へ行くにも行けん、戦場へのぞめば心すてるやろ
(明治35・7・23)
とありますように、「どうでも」という精神が大切なのであります。
「どうでもいんねんを切らせてもらう」
「どうでも徳を積ませてもらう」
この精神をなくして、何事もできません。
あたかも、戦場に臨んで前にも進めず、後にもひけないという時、人は思案を捨てて、かえって心がすわるように、身上・事情に迫られ、人間思案ではもうどうしようもできない時、同じように心を捨てて「どうでもという精神」でご守護を願い、親神様にもたれられるものです。
この「どうでもという精神」がわいてくる時、心は神一条になっています。
しかるに、どうでもという精神が湧いてこないときは、ますます人間思案に流され、神一条の心に遠ざかっているのです。
どんな時も、「どうでもという精神」がないと感じる時、自分の心遣いに反省し、親神様の思召しに近づくことが大切なのであります。