諭達とは?
まず諭達とは何か、耳慣れない言葉ですね。
我々お道の者は聴き慣れておりますが、一般の方は初めて聴く単語だと思います。
諭達は年祭に限らない
これは所属大教会の神殿講話でのお話しですが、
「節目々々に真柱様からは全教に対して出される、道の信仰者としてのつとめ方である。」
所属大教会の神殿講話
とどのつまり、諭達のご発布されるのは、教祖の年祭に限ってだけではありません。
ですから、これまで44回の諭達が発布されているのです。
【全40回】これまでの諭達と大まかな内容諭達の目的
戦時中では、国の方針に従うようなそういった心苦しい諭達もあれば、真柱様継承の時に発布されることなど様々です。
最近の諭達は、教祖年祭に向かって全教の心を一つにして、年祭活動をつとめるために出されるものです。
年祭はどのような経緯でつとめられるのか?
次に教祖年祭をつとめる意義ですが、なぜ教祖の年祭をつとめるのでしょうか?
年祭の理が軽くなっている
教祖年祭がつとめるか?つとめられないか?は正式には分からないのです。
以前は、当たり前のようにつとめていたのですが、百年祭を契機として
つとめた方がいいのか?
つとめないほうがいいのか?
というような議論になりました。
なぜこのような議論がなされているか考えますが、これは当たり前につとめられる年祭では、年祭の理が軽くなってきているということなのでは?と推測します。
天理教用語 「年祭の理」百年祭までのつとめ方
百年祭までは、毎日本づとめがつとめられていたのですが、とても期間が長く、1月26日〜2月18日までつとめられていました。
そのつとめが段々と減っていき、三代真柱様より「そのような年祭のつとめ方で良いのか?そもそも年祭をつとめた方が良いのか?」という議論になったのです。
そんな中で「ぜひつとめていただきたい!」という、理の子の方からの要望により、それなら「1日に限り努めよう」となっていったのです。
年祭はこのようにしてつとめられているので、時がきたら年祭があるという訳ではないのです。
年頭挨拶より
今回の年祭では、真柱様より教祖の140年祭をつとめるというお話が年頭にありました。
年祭をつとめる意義
諭達にあるように年祭をつとめる意義は、
世界一列の人間をたすけたい一条の教祖の親心にお答えすべく、用木一人一人が教祖の道具衆としての自覚を深め、仕切って成人の歩みを進めることである。
諭達第4号
教祖が明治二十年陰暦正月二十六日に、25年先の寿命をお縮めになってまで望まれたことは
- おつとめの徹底
- おさづけの取り次ぎ
- 心の成人
この3つの点を望まれています。
心の成人
諭達の中に「仕切って成人の歩みを進めること」と記されていますが、成人とは何か具体的にどのようなことでしょう?
この成人とは、親の思いに近づく歩みであり、親の思いとは、世界中の人間を一人残さずたすけあげたいという親神様・教祖の思いです。
成人とは、親神様・教祖の思いに近づいていくということです。
成人と成長の違い
成人の意味を説明した上で、「成長」という成人と似た言葉があります。
では、成人と成長はどのような違いがあるのでしょう?
成長とは?
成長というのは、いろんなもの身につけていくということです。
知識や様々な栄養など、赤ちゃんがミルクを飲んで大きくなるように、我々は様々なものを身につけて成長していきます。
成人とは
それに対して成人というのは、放していく、いろんなものを捧げていくというプロセスです。
いろんなものを放す、特に自分の思いです。
自我執着を捨て、恩を深めていく。
親神様・教祖の恩とたすけていただいた命の御恩、運命をたすけていただいた親々の導きの御恩。
この御恩を感じる心を深めていき、人をたすける心を深めていくということです。
三年千日の年祭活動3年間
三年千日の年祭活動3年間とは、教祖のひながたを目標(めどう)に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に進める期間であります。
教祖のひながたが全体的なよりどころであり、目標です。
「たすけ一条の歩みを活発に」ですから、今までと同じであったらいけないわけです。
ひながたを目標に
ひながたを一番わかりやすく表現されているのは昨年の上級教会の会長様の祭文の中にあります。
三つにまとめられていて、
- たんのう一条
- 神一条
- たすけ一条
と、非常にわかりやすく表現されています。
ここでしか学べない教義勉強‼【天の理編】まとめ
- 諭達とは「節目々々に真柱様からは全教に対して出される、道の信仰者としてのつとめ方である。」
- 諭達は教祖の年祭に関わらず発布されることがあり、これまで44回の諭達が発布されている
- 諭達は、教祖年祭に向かって全教の心を一つにして、年祭活動をつとめるために出されるもの
- 教祖年祭がつとめるか?つとめられないか?は正式には分からない
- 百年祭までは、毎日本づとめがつとめられており、1月26日〜2月18日ぐらいまでつとめられていた。
- そのつとめが段々と減っていき、三代真柱様より「そのような年祭のつとめ方で良いのか?そもそも年祭をつとめた方が良いのか?」という議論になった
- 時がきたら年祭があるという訳ではなく、理の子の方からの要望により、教祖の年祭はつとめられている。
- 年祭をつとめる意義は1.おつとめの徹底2.おさづけの取り次ぎ3.心の成人
- 成長というのは、いろんなもの身につけていくということ
- 成人というのは、放していく、いろんなものを捧げていくというプロセス
- 三年千日の年祭活動3年間とは、教祖のひながたを目標(めどう)に教えを実践し、たすけ一条の歩みを活発に進める期間