天理教人名辞典 興助(堀内与助) よすけ

興助(堀内与助) よすけ

堀内与助。

現在の大和郡山市横田町轢枝に、文政3年(1821)12月23日出生、明治15年(1882)7月13日出直し。

文久元年(1861)妻旦旦iが妊娠し、「をびや許し」(おびや許し)を頂き入信。

『稿本天理教教祖伝』には「教祖(おやさま)は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、三重&、仲田、松尾、辻卓互、轢枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かせた処、皆、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止まった。」(128-129頁)とあり、明治8年(1875)6月29日の「ぢば定め」に立ち会っている。

明治13年9月、地福寺傘下ということで公認された時の開廷式の名簿には、お酒5升を供えたという記録がある。

中山正善『ひとことはなしその一』には「翁(飯降伊蔵のこと)の話」として、「明治14年9月頃ヨリ里女(飯降伊蔵の妻のこと)こハ子供ヲ連レテ屋敷へ来ル、同15年旧2月8日に翁ニハ三島へ引越サル、3月3日頃ヨリ宿屋風呂ハ翁の名二致ス。却説、堀内要助(与助のこと)等研究シテ、由江二三昧ヲヒカシ手ヲ付ケシヨシ」の記述が見られる。

孫萬蔵の手記には、桝井伊三郎、西田伊三郎らに、教理や「てをどり」の手振りを雨または休みの日に教えてもらったとある。

また、与助は腹痛持ちで、轢枝村で農作業をしていると腹が痛むので、中山家に行って農作業の「ひのきしん」をして、たまたまに教祖より仕込まれたとも伝える。

時期ははっきりしないが、教祖より

「家の宝にしなされや」

と「赤衣」を頂戴している。