天理教人名辞典 山澤為造 やまざわためぞう

山澤為造 やまざわためぞう

安政4年(1857)1月12日、父山澤良治郎(はじめ良助と名乗る)、母のぶの二男として、山辺郡新泉村(現、天理市新泉町)に生まれる。

元治元年(1864)ごろより、父に伴われて、おやしきに参拝していた。

9歳から寺子屋に通い、読書習字を習う。

12歳ごろからは、昼は農業に従事、夜に読書などして勉強にいそしんだ。

明治10年(1877)、教員を志望して堺県の師範学校に入学するが、身上のてびきを頂いて、志半ばで帰郷した。

医者にかかり、薬をのんで治療に専念するが病状はいっこうに回復せず、父良治郎のすすめにより、明治11年10月26日の「命日」に教祖(おやさま)のもと、おやしきに参拝する。

教祖は、

「よう帰ってきなさった」

とやさしい声をかけられ、かしもの・かりもののお話をお聞かせくださった。

それからというものは、たすけていただきたい一心で、おやしきに3日とあけず参拝した。

当時おやしきでは、官憲の目をのがれるため蒸風呂を営業していた。

これにも入り養生をするが、なかなかよくならず、この間、いろいろおさとしや神様のお話を聞く。

そして次第に快方のご守護をみせていただいた。

それではと、学校に戻るが、コレラの流行で生徒は帰郷を余儀なくされた。

コレラが下火になり、学校にもどろうとしたら、今度は父良治郎が病に倒れた。

この姿を見て、為道は、道一条を決め、専心道の勉強をすることを決意した。

そうするうちに、明治16年6月19日、父良治郎が、53歳で出直す。

為造は、一日もはやくおぢばに伏せ込ませていただきたく、その旨を教祖に伺うと、

「先を長う思へば急くこといらん」

と仰せられ、伏せ込みは、3年後でよいとのことであった。

明治19年ごろ、飯降おさと、上田いそから、為造と梶本ひさの結婚話が出てくる。

教祖は、

「不思議な結構な縁やで」

とお喜びになってお許しになられた。

ところが、明治20年正月26日、教祖が現身を隠されるという大きな「ふし」に遭遇するにいたって2人の結婚は頓挫してしまう。

そんなおりに、梶本ひさの左の乳に腫れ物ができた。

周囲の人びととこれについて話し合った結果、これは両人の結婚を促されている印であると悟った。

それによってその縁談が急進することになり、為造は、明治20年陰暦4月8日、梶本ひさと結婚した。

為造はこのときすでに31歳であった。

翌年女児が誕生するが、60日経つかたたぬかの4月16日身上に障りをいただき、その神意を、「おさしづ」で伺っている。

「親が子となり、子が親となり」と言われ、女児サヨは、ひさの母親、すなわちはるが、今度は、子となって生まれかわっていることを明かされたのである。

こうして、為造ほおやしきへの伏せ込みを本格的に始めることとなるのであるが、それに先だって、明治20年教導職試補、同21年5月教会本部庶務掛を拝命している。

明治21年、教会本部の設置が公認されて、明治22年以降、各地に分教会、支教会が続々設立され、教えが全国に延びた。

真柱は、随行を従えて、その開廷式に出向くことが多くなった。

教会の設立には地方庁との折衝も必要になる。

そうした方面の指導のため、本部から要員を派遣する必要があったようで、為道もそうした役割を担って、あちらこちらと巡教に出向いている。

また、秘密訓令の後は、教会に諸事情が発生し、その解決も本部に求められるようになる。

「おさしづ」の割書から為造の動きを整理すると次の3つに分類できる。

  • (1)巡教を目的としていたもの。
  • (2)開廷式など臨時祭典に随行として、あるいは本部を代表して参席するを目的としたもの。
  • (3)教会の事情解決のための出張。

総じて、明治20年代はじめに、巡教、中頃になると各教会の開廷式への出張が多くなり、内務省の秘密訓令が発令されてからは、問題を抱えている教会の整理が目的のものが多くなっている。

この間、明治35年8月、日本全国を10教区に分けて、教会を監督する機関が発足。為造は、滋賀、岐阜、愛知、静岡、山梨県を管轄する第2教区取締を拝命する。

その後、明治40年5月に教会組合規定が定められ、このときも為道は同地区(山梨をのぞく)を担当する。

さらに、明治43年8月教務支庁規定では、奈良教務支庁長に任ぜられている。

明治41年12月には天理教教庁録事、教会本部役員、教師懲戒委員、同44年12月、天理教教庁幹事、大正3年(1914)12月より同4年3月まで道友社社長を歴任。

また、明治38年、旭日支教会の窮状を救うべく、為造と桝井伊三郎が本部より派遣される。

旭日支教会は、明治36年8月に神殿を竣工させたが、教会の財政が緊迫状態に陥っていた。

そこで、教会の土地・建物などすべてを売却、負債の整理が行われ、結局翌年、「旭日支教会長岡本善六辞職に付、山澤為造後会長に御許し願」(さ39・11・28)が伺われ、同日、旭日の2代会長に山澤為造が就任、その復興を目指した。

そして、4年後の明治43年12月11日、現在の場所に新しい神殿が竣工、その落成奉告祭と分教会昇格の奉告祭を執り行っている。

明治41年11月27日、全教の長年の宿願であった一派独立が成就し、初代管長に中山眞之亮が就任。

組織の強化、設備の充実がすすめられた。

天理教婦人会が設立され、天理養徳院が創設された。

「おさしづ」で急き込まれた神殿普請も、明治44年に始まり、大正2年に竣工した。

さあ、これからという大正3年12月31日、初代真柱が出直した。

大正4年1月8日、初代真柱の葬儀が、為造斎主のもと執行された。

大正4年1月21日、嗣子正善11歳が管長についた。

「天理教教規及規定」管長襲職規定の第5条、「管長未成年ナルトキハ其成年二達スル間ハ第三条ノ会議二於テ管長職務摂行者ヲ定メ内務大臣ノ認可ヲ経へキモノトス」によって、山澤為道が管長職務摂行者に就任。

1月25日岡奉告祭執行。

これより2代真柱が管長就職する大正14年(1925)4月まで、10年間管長職務摂行者の位置にあり、教線の拡張に力を注いだ。

その主なものを挙げれば、以下のようである。

大正5年1月教祖30年祭を執行。

10月の秋季大祭に明治29年内務省訓令により改められていた「朝夕のおっとめ」を復元し、従前通り「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」を唱えることとなった。

大正7年10月25日、天理教青年会が創立され、山澤摂行者が会長に就任。

大正10年1月、教祖40年祭日取りを来る大正15年1月15日、20日、25日の3回に分けて執行する旨を発表。

教祖40年祭を迎える準備体制づくりに摂行者として大いに活躍した。

大正15年5月、会計部長に就任。

その後、本部役員元老として重きをなし、昭和11年(1936)7月20日、80歳で出直した。             

温厚篤実、真面目な人柄であったので、だれからも慕われた。

晩年、「道が大きくなれば、どんな事もあろうが、どんな事があっても誠の心を忘れてはいかんで」と述懐しているように、自身、いつでもどこでも、だれと接するときも、この誠の心で通ることを信条にしていたのであろう。