山中彦七 やまなかひこしち
山中忠七、皇聖との間に、嘉永2年(1849)、大和国式上郡大豆越村(現、桜井市大字大豆越)で生まれる。
山中忠七の父も同名である。
山中家入信後、父の忠七が毎日おぢばへ足を運ぶようになったので、少年期、父に代わって昼は農業に精を出し、夜は夜学に通うという日々を過ごした。
明治7年(1874)4月から小学校の教員になったが、その後、明治24年4月より教会本部に勤めるようになった。
明治33年4月1日、天理教教師養成機関としてに開設した天理教校の初代校長となる。
その後は、本部員にも登用され、教会本部にあって要職を歴任し、昭和7年(1932)1月28日、84歳で出直した。