天理教人名辞典 上原佐吉 うえはらさきち

上原佐吉 うえはらさきち

文化13年(1816)2月17日、備中国(岡山県)小田郡笠岡村に笠原儀七(幼名利吉)、お津の長男として誕生。

文政10年(1827)12歳で、大坂の長堀川中橋で仲買業をしていた備後屋(通称「備嘉」)上原嘉兵衛を頼って上坂した。

16歳で「備嘉」の番頭になり、弘化2年(1845)1月、上原家から両区鰻谷中之町に分家して、佐助を名乗る。

分家してからは、毎朝4時には起床し、市内の神仏を順拝し、さらに家に祀ってある神仏を拝むというほどの信心家だった。

嘉永元年(1848)4月、33歳の時独立して畳表商「備佐」を始めた。

同年「備嘉」につとめていた丹波国舞鶴の大矢長左衛門の娘八重と結婚、同4年11月、笠岡村の笠原家から分家して上原家を創家した。

明治8年(1875)3月、佐吉を頼って笠岡から出てきていた甥笠原儀七(後の東大教会初代、上原佐助)を養子に迎え、さらに明治15年2月には隠居して、妻八重と共に西区新町に分宅した。

その折、佐助の名前も儀七に譲り、自分は佐吉に戻っている。

明治13年、天理教の話を聞いて、家族で入信。

佐吉夫婦は今まで祀っていた神棚を整理して、神床をつくり、神名を唱えて、朝夕参拝するようになった。

明治14年4月には、佐助とその妹イシを連れて、佐吉夫婦は大阪真明組の人々と初めての「おぢばがえり」をした。

その時、教祖に会い「月日に雲をかいた杯」を頂戴した。

同年10月には、警察に拘引留置されていた教祖(おやさま)を迎えに、佐助と奈良に行き、「おぢば」までお供した。

明治12年頃から不況になり、商売もその影響をうけ低迷し、18年春には、すべての商売を思い切り、佐吉夫婦の養女となった光(佐助の長女、後の笠岡大教会2代会長夫人)とイシを連れて笠岡へ帰った。

大阪に残っていた佐助の妻とよ(後さとと改名、以下さとと表記、笠岡大教会初代)は、明治19年6月14日、佐吉夫婦の願いによって帰郷、佐助とは別れることになった。

翌日八重が出直した。

さとの持参した御供(ごく)によって笠岡に天理教が広がり始めるが、同年8月佐吉は病気になり伺ったところ、教祖から「国々の柱、だんだんの柱」というお言葉を頂いた。

これを「神様は、そんなに思うて下さっているのかなあ」と悟り、気持ちが明るくなり、全快した。

同年から20年にかけて、後の笠岡大教会の礎ともなる人々を始め、多くの人々が入信していた。

そこで、20年春、佐吉は大阪真明組に教理指導・視察を依頼した。

大阪から今川聖次郎・宮田善蔵がまさに船で出発しようとした時、教祖が現身を隠されたとの知らせが入り、両人はそのままおぢばへ向かった。笠岡で2人を待っていた人々は遅れて届いた報せに非常に驚いた。

たすけを求めて寄りくる人々が増え、明治21年洲崎に寄所を設けたが、依然として多くの人が訪ねてくるので、上原家と番所が別々では都合が悪いということになり、衆議の結果、笠間八幡平に広い家を購入して、明治22年5月移転した。

同年8月佐吉はおぢばへ帰った時、「かんろだいのさづけ」を頂いた。

明治23年梅雨の頃から佐吉は体調が思わしくなく、床に臥す日々となり、7月4日75歳で出直した。