中川文吉 なかがわぶんきち
大阪市西区本田通りの中川文吉は、井筒梅治郎(現、芦津大教会初代会長)宅の一軒おいて東隣の染め物屋の主人である。
明治12年(1879)、井筒の娘たねのお尻に腫れ物ができたとき、「種市」(前田藤助) を紹介し、たすかっている。
同年秋、今度は中川文吉自身が眼病を病んだとき井筒梅治郎にたすけられ入信した。
翌13年のある日、中川文吉は、お礼詣りに「おやしき」へ帰った。
教租(おやさま)は、中川にお会いになって、
「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう。」
と、仰せになった。
日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。
すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるようにと仰せられた。
中川は、仰せ通り力一杯に教祖の手首を握った。
不思議なことには、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍して下さい。」と叫んだ。
教祖は、
「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか。」
と仰せられたという(『稿本天理教教祖伝逸話篇』 75話「これが天理や」)。
明治14年陰暦4月17日、井筒梅治郎を講元として真明組が結成されると、中川は講脇となっている。
中川家の2階に神様をお祀りし、信者の集まる「本田寄所」とした。
この寄所で、「おてふり」の稽古が行われたのである。
中川は、同じ明治14年の「かんろだい」石普請の折には、5月7日に50銭を寄付(〔「甘露台寄附并二入費控帳」している。
また、明治22年1月15日には、井筒梅治郎を教会長として、芦津分教会(現、大教会)を設置しており、井筒の隣に書名捺印している。
- 高野友治『天理教伝道史』第1卷(天理教道友社、1954年)
- 天理教芦津大教会史料部編『真明芦津の道』巻1、巻2(天理教芦津大教会、2009年復刻版)