村田幸右衛門 むらたこうえもん
文政4年(1821)大和国山辺郡前栽村(現、奈良県天理市前栽町149番地)に、父小右ェ門の子として生まれた。
幸右衛門は前栽にて農業を営んだ。
文久2年(1862)40歳の時、腹痛にて轢枝村の堀内与助から「にをいがけ」(においがけ)をうけ、教祖(おやさま)に会ってたすけられた。
それより妻いゑと共に信仰が進み、村人の嘲笑、親戚の反対の中でも、手弁当持ちで熱心に教祖のもとに参り、話を開き、手伝いをした。
元治元年(1864)12月26日「御幣、肥のさづけ」(さずけ)をいただく。
「扇のさづけ」もこの頃にいただいた。
幸右衛門は田舎浄瑠璃を歌い声が良かった。
慶応年間に「みかぐらうた」を教えられ、教祖より
「こよみさんこれを歌うてみい」
と仰せられ、歌うと
「その節その節」
とほめられた。
また、数名の人と共に、教祖より最初に「おてふり」を教えて頂いた。
明治初年からは夫婦でほとんど「お屋敷」に詰めるようになった。
明治9年(1876)から宿屋・蒸風呂が営まれると、幸右衛門は風呂炊きもして、教祖から
「風呂炊きの芯」
と仰せられた。
明治13年11月長男長平が「お屋敷」で豆腐屋を開業し、明治14年末に近くに新築移転し、翌年より宿屋業も営んだ。
通称「豆腐屋の宿」と呼ばれた。
明治17年頃、警官の弾圧がますます烈しくなり、信者の参拝を許さなかったが、幸右衛門の家族はいつも「お屋敷」に出入りしていたので、巡査も中山家の者とみなして各めなかった。
幸右衛門は晩年に魂のぬけたようになり、教祖に伺うと
「小人三才の扱いをせい」
と仰せられた。そして教祖は
「魂はもう先方へ宿っておるがな」
と、その時腹痛で来ていた桝井さめの腹をなぜ、
「魂は生き通りや、これ生き通りのひながたや、ひながたには二つはないのやで」
と仰せになった。
さめに生まれた子が慶蔵で、3歳の時から長平の養子になっている。
明治19年10月21日出直し(66歳)。
子供は男2人女2人で、二男幸助、長女つね(南本家嫁)、二女カノ(林家嫁)がいた。