天理教人名辞典 松村吉太郎 まつむらきちたろう

松村吉太郎 まつむらきちたろう

松村栄治郎、さくの長男として、慶応3年(1867)2月10日に生まれる。

両親の熱心な信仰により、幼少の頃から母に連れられてよくおぢばへ帰っていたという。

明治17年(1884)7月から南高安村役場の戸籍係に勤務。

吉太郎は、幼少の頃から非常に利発で、本もよく読んでいたが、理性でもって判断し、不合理と思われる信仰には服しないという堅苦しい気性ももちあわせていた。

明治19年の春、吉太郎は悪性の肋膜炎にかかり、両親や周囲の人たちから真剣に信仰するよう勧められて本気で信仰することを誓い、親神の守護をいただいた。

ここから吉太郎の信仰の第一歩が始まる。

明治19年夏、吉太郎がお屋敷へ帰らせて頂いた時のことである。

多少学問の素養などもあった吉太郎には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。

この心持ちが教祖(おやさま)には分かったと見え、ある時、教祖は、

「この道は、知恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや。」

と仰せになった。

この言葉を聞いて、吉太郎は、心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを、心に深く感銘したのであった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』309頁)。

明治21年1月8日、吉太郎は、身上に少しおていれを頂いたので、おぢばへ帰り、お伺いしたところ、「おさしづ」を頂いた。

さらに、同年1月15日に、再度「おさしづ」を頂き、半月後の30日に3度「おさしづ」を頂き、翌31日には4度の「おさしづ」を頂き、この「おさしづ」によって、「神水(こうずい)のさづけ」を頂戴した。

教祖1年祭のふしを契機として、天理教会設立の議がおこり、明治21年(1888)、東京府庁へ出願するために、吉太郎は、役場を辞職の上、初代真柱に随行して上京し、設置認可に奔走して、その任を果たした。

明治22年1月26日、吉太郎は、左右の目尻のおていれから教会を設置することと、教会本部の御用に勤めきること、この二つを一つの心に治めて、二つ一つを真に結構と喜ぶ精神を定めた。

栄治郎や吉太郎には講社がなかったため、おぢばから、平野楢蔵、山本利三郎、高井猶吉の3名が出張して、河内、和泉、および摂津の一部に散在している、松村家と幾分因縁のある講社を集めて教会を組織することに決定し、連署の上、吉太郎を会長として高安分教会設置の出願をすることとなった。

ところが、大阪府に出願した分教会設置願は4月に不認可となった。

父栄治郎は神殿建築のためにと、すでに木を山から伐り出していたが、普請も進められず、大きな心の痛手を負うことになり、折から祖母たみと、父栄治郎がともに病床に伏す身となった。

この年10月、吉太郎は、芦田家よりのぶを迎えて結婚した。

祖母たみは、吉太郎の結婚後、6日目に出直した。

父栄治郎も再三「おさしづ」を頂いたが、11月6日48歳で出直した。

吉太郎23歳のことであった。

翌明治23年5月13日「おさしづ」を頂いて、大阪府へ分教会設置について再出願することとなり、同年6月10日付けで高安分教会の設置が認可された。

吉太郎は、高安分教会設置のため、種々困難な道を切り開いていったが、また一方、つねにぢばの理のためにもあらん限りの力を尽くし、奔走を続けていた。

明治32年5月、上京した初代真柱に、時の神道本局稲葉管長より天理教の一派独立を勧める話があり、それをうけて、5月30日、一派独立について「おさしづ」が伺われた。

そのなかで、独立運動開始のときにあたり、神一条の道の理と、世上世界の理との順序、軽重を戒め、「事情は世界の理に結んでも、尚々元々紋型無き処より始め掛けた一つの理を以て、万事括り方治め方結び方という。この理一つが道の理である程に。」と、本末の順序を諭し、「一箇年二箇年では鮮やかな事情は見られようまい。」と、前途の多難を予言の上、「ぽっへ始め掛け。」(さ32・5・30)とのお許しの言葉を頂いた。

さらに6月6日、独立出願について、一同打ち揃って神意を伺うと、快く出願を許され、立教以来の伝統的精神を、しっかと胸に治めて、独立請願の目的に邁進せよ、それこそ道の花とも称えるべき壮挙であると励まされた(『稿本中山眞之亮伝』266-267頁)。

ここに、初代真柱はじめ一同は、独立請願運動を起こす決意を固めた。

この独立請願運動に最後まで携わっていったのが、吉太郎であった。

吉太郎は、明治32年7月に神道本局との分離交渉を終え、8月9日、一派独立請願書を内務大臣宛に提出した。

しかし、明治33年10月22日に却下された。

その後、明治41年11月27日に認可されるまで、足掛け10年、都合5回にわたって独立請願書を提出することになった。

その間、書太郎は、教義や組織の整備にかかわり、請願運動の前線に立って政府との交渉に当たった。

明治41年7月、独立請願運動が九分九厘まで行きながら、行き止まってしまったことがある。

吉太郎は、全くがっかりして、とくに初代真柱に申し訳ないとの一念から、辞退したいと言い出した。

すると、初代真柱は、「お前は生命を捧げる覚悟で従事して居るのではないか。それに生きて居て辞退するとは何事である。死んだら、やれとは言わぬ。生きて居る間は、どこまでもやれ。内部にどんな事があっても、俺が引き受けるから、安心してやれ。」と励ました(『稿本中山眞之亮伝』360-361頁)。

吉太郎は、この一言によって起り、さらに勇んで独立請願運動に取り組み、その成果を見ることができた。

吉太郎は、大正10年(1921)大教会長を長男義孝に譲り、教祖40年祭準備委員長として、倍加運動で盛り上がる年祭活動に力を尽くした。

昭和27年(1952)9月17日、85歳で出直したが、明治、大正、昭和の激動する困難な時代にあって、高安大教会初代会長として、教会の設立・発展の上に努め、本部員として、初代真柱を支え、ぢばに尽くして活躍した。