小西定吉 こにしさだきち
安政3年(1856)8月3日生まれ。
奈良県宇陀地方へは、早くから信仰が伝わっていた。
小西定吉は、明治15年(1882)3月頃、森本治良平の導きにより、自身の胸の病と、妻のイエが妊娠中であったところから、教祖(おやさま)のもとを訪ね、「をびや許し」(おびや許し)をいただいた。
定吉が、「この神様は、をびやだけの神様でございますか。」と伺ったところ、
「そうやない。万病救ける神やで。」
と仰せられた。
それで、定吉は、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか。」と尋ねた。
すると、教祖から、
「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ。」
とのお言葉をいだだき、定吉は、心に治めた。
帰宅して、一心に神名を唱えたところ、長い間苦しんでいた病も、日ならずして救けていただいた。
妻のイエも、男児を安産、早速「おぢば」へお礼詣りに帰ると、教祖は、
「心一条に成ったので、救かったのや。」
と仰せられた。
定吉は、「この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」と伺うと、教祖は、
「人を救けるのやで。」
「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
と仰せになり、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を2、3合下され、
「これは、御供(ごく)やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇」100話「人を救けるのやで」)
と仰せになったという。
定吉が家にもどると、いたるところ病人だらけで、教祖に教えていただいた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かったのである。
明治17年のこと、おぢばへ参拝したことを巡査に咎められ、警察に連れられて帰った翌日、母親が、「お前は、あんなひどいめにあって、誓約書まで書かされて、それでまた(おぢばへ)行こうというのか」というと、定吉は、「警察に引っぱられてゲン糞が悪いわい。今日は、参拝のし直しに行ってくるんじゃ」と答えて出かけたという。
明治18年心勇講に所属し、明治29年7月11日宇陀支教会を設立。
小西定吉は、当初、副会長であったが、2代会長となっている。
昭和24年(1949)7月安政3年(1856)7月8日出直し(94歳)。