ありのままdiary R187.4.30

4月おーわり

4月が終わりました。

長かった、キツイ環境でさまざまな事を見せられ考えさせられる日々での布教生活は長すぎた。

まだまだ心が穏やかでなく、勇める訳もない状態のため、仲間にたすけてもらって2人で歩くことにした。

事情を知る仲間たちには、

「よく笑顔を出せるね。裏では苦しんでいるかもしれないけど、みんなの前でそんなにも普通に過ごせているのはすごい」

と何度も言われる。

いや、普通な訳ない。

力も出んし歩きたくないし、ただ茫然と時が過ぎるのを待ちたい。

けれどもやるべきことがあるし、ここで止まると何もかも変わらず、進むことはできないと、やむなく歩いて紛らわしている次第です。

今日の戸別は淡々と断られ、罵られるのみであった。

自転車に乗る前のおばさんに声をかけると、これでもかと言えるくらい嫌な顔をされ、自転車を漕ぎながらブツブツと悪口を言われて去られたくらいのことしか起きなかった。

久しぶりに罵られ、これもありだと感じた一日でした。

向き合うってしんどいこと

ショッキングな事が起きるとイヤでも色々考え、見直さなければならなくなる。

そこで再確認したのは、昔から神様は自身には厳しい出来事を通して背中を押して下さるばかりである。

周りには、喜べる事を通して勇める状態になることが起きている最中においても、自身には落ち込み、これではいけないと思って無理矢理奮い立たせることでしか頑張れない状況にしか陥らないのである。

今回もそうで、これが起きたら原動力がなくなるよ、と思っていた中の最上級の出来事を見せられた。

苦しくてイヤだが、これも見つめ直すきっかけではある。

先ほど、めちゃくちゃ久しぶりに神前にぬかずいて神様に思いをぶちまけてきた。

思い返すと、学生時代に原典と向き合う際、

「この神意を分からせて下さい」

と本部の神殿と教祖殿で願い込んだ以来かもしれないと思った。

その時以来、自分の本性と神様と向き合うことを避け、しないように通ってきたことを思い出した。

その頃から、人当たりや雰囲気などの表面的なことを磨く努力を重ねてきたが、徳や魂など、自分ではどうすることもできない中身の部分、すなわち本質的な改善をしようとしてこなかった自分である。

今回のふしを通して実感し、神前で思いをぶちまけてみて分かったことは、

「神様の思いは分からないし、分かりたくない」

と思っていることが自分の今の本音であるということ。

本当に申し訳ないことだが、これを自覚出来たことは良いことだし、自分の現状だと理解できたので良しとする。

この本音は、どうなってゆくのかなぁと。

明日から5月、ゆっくりいきます。