小松駒吉 こまつこまきち
慶応元年(1865)2月15日、父小松清吉、母ゲンの長男として出生。
父の後を受けて大工を職とし、大阪市南区瓦屋町1番丁(現、大阪市中央区瓦屋町)に住んだ。
明治15年(1882)6月末、駒吉はその頃流行中のコレラに催病したが、泉田藤吉(天恵四番講元)のおたすけにより九死に一生を得た。
この時、泉田は、「私がたすけたのやない。天のおやさまがおたすけ下されたのです。天へのお礼をしなさい。天へのお礼は、御恩報じに人をたすけるのです」と言った。
明治15年7月、駒吉は泉田の案内でおぢばにかえった時、教祖(おやさま)は「証拠守り」を渡され、
「年は十八、まだ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』176-177ページ)
とお言葉をたまわった。
駒吉は、「あ、、このお方が私の生命をたすけて下された天のおやさま」と心の中で叫んだ。
明治20年陰暦正月7日、お節会の日、教祖は手ずから赤衣をお授け下さった時、「駒吉の事なら、教祖は何もかも御存知や」と感激した。
明治20年12月4日、「それ心の誠を強いのやで。どんと心を定め」と、又、明治21年2月6日朝、「旬が無けら、芽も吹かん、誠の精神なら、埋りて置く根があれば芽が吹く」とのお言葉通り、日々、誠の精神でまじめに通り切れば必ず芽の吹く日が来ることを駒吉は確信した。
明治24年11月25日、駒吉は御津支教会初代会長となり、昭和8年(1933)10月23日、本部員に登用され、翌昭和9年2月13日、70歳で出直した。