上田嘉治郎 うえだかじろう
天保元年(1830)6月2日、大和国添上郡古市村(現、奈良市古市町)で出生、父は近藤与惣太是春といい、代官所に務める士族。
古市は藤堂藩の代官所が置かれていた。
本数にゆかりのある山辺郡丹波市村、庄屋敷村、西三昧田村などは藤堂藩の領地で、これらの村々は古市代官所の支配を受けていた。
幼名を豊吉といい、嘉助と改名したが、後に嘉治郎と称した。5歳の時、山辺郡園原村の上田小一郎(幸市郎ともいう)の養子になった。
のち山辺郡滝本村の加藤たきと結婚、7人のこどもを挙げた。
そのうち、上の2人は女で小さい時に亡くなり、三女のナラウメは朝和村萱生の萩原家に嫁ぎ、次の長男楢吉は上田家を継ぎ、四女のナライトは本席飯降伊蔵の出直し後、おさづけを渡した人である。
五女のナラトメは大阪の寺田城之助(この人の父が寺田半兵衛で綱島分教会初代会長)に嫁いだ。
末子の楢治郎は本席の長女よしゑと結婚し、永尾家を創設した。
嘉治郎が47歳の明治9年9月頃、14歳のナライトが急病にかかり、ときどき妙なことを口走るようになった。
家族や近所の人たちは神経病だろうといった。
嘉治郎は医者や神仏に祈ったり、灸をするなど手を尽くして看病したが、よくならなかった。
隣家の西浦弥平から天理教の信仰を勧められたが、とりあわなかった。
が、ナライトの病は改まらず、意を決して教祖(おやさま)にお願いに参上した。
すると教祖は
「神の深い思いがあるからで、少しも案ずることはない」
と仰せられた。
そして帰宅してみると、ナライトの病は治まっていた。
これが上田家人信の動機である。
翌明治10年、教祖は嘉治郎に
「神の思惑があるから、ナライトを神がもらい受ける」
と仰せられた。
突然のこととて当惑したが、仲田儀三郎や西浦弥平からも諭され、明治12年教祖の仰せを受けることにした。
すると教祖は
「神様に差し上げたからには、一人身暮らしやで」
と仰せになり、また
「人足やしろにする」
とも仰せになったという。
これにより、上田ナライトは、生涯一人身暮らしを通したのである。
また、明治13年中山秀司とともに1日丹波市警察署に拘留されるという苦難なども味わった。
その後も嘉治郎は信仰に励み、教祖のもとへ通って話を胸におさめ、一身一家の都合を捨てて神一条
に勤めきり、明治22年11月30日には「かんろだいのさづけ」をいただいた。
なおも信仰を深め、神のご用に励んだが、明治27年11月下旬より身上の患いとなり、翌28年1月26日出直した。65歳。