澤田権治郎 さわだごんじろう
弘化3年(1846)3月11日大和国式下郡海知村(現、奈良県天理市海知町)に生まれ、大正13年(1924)5月26日に79歳で出直す。
妻ふじゑは産後の肥立ちが悪く、2年ほど床につく。
そのご守護により入信。村の合役(助役)も勤めた人望家。明治9年(1876)には「おつとめ」の御紋を頂く。
海知村講社講元。
心実組副取締(桧垣村、海知村、長柄村、備前村)。
明治13年9月の『大和国天輪王講社連名簿』第2号海知村の項に記名がある。
明治15年、教祖(おやさま)の奈良警察署拘留に際しては差し入れに出向く。
明治16年8月15日、三島村民嘆願の雨乞づとめの一員として心実組から美並久五郎と共に勤め、警察に拘引され、50銭の科料を受けたという。
明治20年教祖が現身を隠した翌日の写真に写る。同年12月14日午前11時10分の「ながくの道……まこと一条の所へ」という「おさしづ」によりさづけの理を授けられる。
明治25年4月20日、47歳の時城法支教会の役員(庶務兼派出)に任命される。
同年3月12日の「城法支教会設置請願書」と明治29年1月13日の「城法支教会担任変更及移転願」の両方に名を連ね、同年奈良県庁、奈良県知事古澤慈宛に提出の「神道天理城法支教会担任変更及移転届」には信徒総代3名のうちの1名として連署している。
この時の住所は、奈良県式下郡川東村大字海知第5番屋敷と記されている。