宮森与三郎(旧姓岡田与之助) みやもりよさぶろう
本部員。
明拝分教会初代会長、梅谷大教会2代会長等を歴任。
安政4年(1857)大和国式下郡桧垣村(現、奈良県天理市桧垣町)に父岡田善九郎、母知嘉の三男として出生。
幼名輿之助。明治15年(1882)6月宮森家に養子として入り、輿三郎と改名。
明治10年頃、左腕痛から入信したと伝えられる。
明治13年8月、中山秀司が転輪王講社設置のため金剛山地福寺へ行く時、宮森が供をした。
秀司は60歳になり足も悪かったが、教祖(おやさま)の意に適わない事でもあり、宮森の他は誰もお供しようとしなかった。
地福寺までは山道が多く、芋ケ峠という難所では宮森が秀司の荷物を背負い、後を押して登ったと伝えられる。
おぢばで勤めることが多かったが、合間を見て布教に出ている。
明治14年山城地方に布教。
京都府木津町梅谷の笹西治郎兵衛、駒谷忠四郎等が信仰を始め、今日の梅谷大教会、並びに田原分教会の基礎を築いた。
また、明治15年には桧垣村鴻田忠三郎ににをいをかけた。
鴻田は新潟大教会の基を始めた人。
さらに明治16年、高井猶吉、井筒梅治郎と遠州に出張した。
明治41年本部員制度が確立された時、最初の本部員となる。
明治43痺前橋教務支庁長。
昭和11年(1936)1月25日、教祖50年祭前日80歳で出直した。
生涯のほとんどをおやしきで過ごし、農作業をしたり、遠方から帰参した人たちの世話をした。
性格は、天衣無縫、無欲。純真な信仰者であったという。