増井りん ますいりん
天保14年(1843)2月16日、河内国大県郡大県村(現、大阪府柏原市大県)に、父善治、母うのの一人娘として生まれた。
19歳で婿をもらい3人の子供を授かり、満ち足りた日々を送っていたが、明治5年(1872)、りん30歳の年、父親と夫を相次いで亡くし、明治7年には、ソコヒになり両眼とも見えなくなった。
当時12歳の長男幾太郎は、なんとかして母の眼病を癒したいと願い続けていたが、所用で大和の竜田へ行った帰り道、道連れになった男の人に、大和の庄屋敷の神様の話を教えてもらい、家に帰って母に話した。
初めて聞く教理は、りんの心に深くしみ込んだ。
我が身・わが家がどのようになりましても、たすけ一条のために喜んで通らせていただきます、と心定めをしたあと、一家そろって真剣に祈り続けた。
三日目の朝、りんの眼が見えるようになった。
早速りんは「おぢば」へ帰った。
教祖(おやさま)は、待ちかねておられたように、
「遠い所から、ほのかに理を聞いて、山坂を越えて谷越えて来たのやなあ。さあ/\、その定めた心を受け取るで。楽しめ楽しめ。さあ/\、着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。ながあいこと勤めるのやで。さあさあ楽しめ楽しめ、楽しめ。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』62-63頁。)
とおおせになった。
雨の日も風の日も、「おぢばがえり」を続け、同時に、白熱的な布教が始まった。
明治10年ごろから、教祖の
「日を定めて勤めるよう。」
とのお言葉で、おやしきづとめも始まった。
りんは入信以来、教祖より「針の芯」のお許し、「息のさづけ(さずけ)」「あしきはらいのさづけ」「肥のゆるし」等、数々の重い理を戴き、明治31年別席取次人となり、その後、婦人本部員としてつとめきり、昭和14年(1939)12月17日、97歳で出直した。