紺谷久平 こんたにきゅうへい
弘化2年(1845)播磨国飾東郡飾磨柑(現、兵庫県姫路市飾磨区)にて父延木久兵衛、母すみの長男として出生。
父が早く出直したため、10歳の頃大阪の絞屋に奉公する。
声がよく元気に働いたので評判がよかった。
20歳の頃、飾磨へ帰り紺久という屋号で紺屋を開いた。
商売は順調で、飾磨の他姫路、家島方面に得意先が多かった。
明治9年(1876)32歳の時、風眼にかかり明治13年頃には両眼共ほとんど物の識別ができない程になった。
明治16年、商売上親交のあった徳島の正木国蔵(名東大教会初代会長)より神様の話を聞き、感ずるところあって生涯を道のため捧げる決心をした。
3日後には御守護を頂いた。
明治17年、初めておぢばへ帰り、教祖(おやさま)にお目にかかる。
明治18年には教祖から講元になるようすすめられた。明治21年おさづけの理を拝戴し信仰は益々白熱化。
飾磨、姫路に信仰が広がる。
明治23年5月2日兵神部属飾東支教会を設立。
明治25年には初めての部内教会が設立され、同29年にも一挙に6教会が部内教会として誕生。
飾東の教会財政を苦しくすると心配の声もあったが、紺谷久平の部内を育てる心から乗り切ることができた。
大正14年(1925)老齢のため会長職を孫の金彦に譲る。
昭和5年(1930)6月10日、86歳で出直す。
誠一徹で意志の強い人であったという。