古川文吾 ふるかわぶんご
天保6年(1835)生まれ。
古川豊後ともいうようである。
文久4年(1864)教祖(おやさま)が安堵村の飯田善六方へ出向き、40日滞在されたとき、奈良の金剛院の者をつれてきて論難した医師(『稿本天理教教祖伝』47頁)。
大和国葛下郡今泉村に生まれ、ト部神道を研究し、各地の神社仏閣を廻って修業し、江州三井寺の円満院にも出入りした。
吉田神祇管領家から神職名をもらい、みずから古川豊後守橘正修を名乗ったという。
教祖との論争については、後年「あれは私の敗けやった。あの婆さんは偉い婆さんや」といっていたという。
明治には古川正伸と名乗り、法隆寺村で医者を開業。
大正14、5年頃没。