福井治助 ふくいじすけ
文化13年(1816)生まれ、明治11年(1878)出直し。
治三郎ともいった。
岩屋ケ谷村(現、天理市)前田家(前谷という説もある)から、豊田村の福井家に入婿した。
妻と死別し子供もなかった。
その後、教祖(おやさま)の長女まさが後妻に入った。
嘉永5年(1852)、三女おはるは梶本家に嫁入りし、翌6年には夫の善兵衛が出直し、いよいよ世界のふしんに取りかかる手始めとして五女のこかんが大坂に神名流しを行った頃のことである(福井家記録では嘉永7年)。
まさが29(30)歳まで結婚しなかったのは、かつて乳親として預かっていた子が黒痘瘡にかかって危篤に陥った際、まさと次女やす(天保元年没)の2人を身代わりとして命乞いした神との約束によるものかと思われる。
夫婦の間に鶴太郎、重吉、男子(天逝)の3人が生まれたが、明治4年離婚して(『復元』13号、豊田村玉英寺より善福寺への「宗旨送り差戻し一札之事」による)、重吉を連れて里方の中山家に帰った(福井家で11年としているのは、まさが、中山家の分家を創立して分籍した年を指しているのであろうか)。
明治11年5月、治助は63歳で出直した。
教祖に対する官憲の圧迫がきびしい時代、信者のために村田長平の「とうふ屋」、中山重吉の三島屋などとともに、福井鶴太郎の豊島屋(のち福井旅館)も信者の宿泊や世話どりに尽力した。
福井鶴太郎には、もと、勘治郎、梅造の3子、中山重吉には慶太郎、寅治郎、しづゑの3子が生まれた。
福井もとは中山慶太郎に嫁し、勘治郎は福井家を継承、梅造は教祖の生家前川家に入婿した。