網干大教会(あぼしだいきょうかい)
初代会長とその生い立ち
岡部吉兵衛は、弘化3年(1846)2月22日、播磨国伊津の浦(兵庫県揖保郡御津町岩見)の漁師大西源左衛門と妻おふくとの間に4人兄弟の一人として生まれた。
11歳の時、同国揖東郡旭陽村の内津市場村(網干区津市場)の岡部源兵衛・古宇夫妻の養嗣子として迎えられた。
岡部家は昔より紺屋(染物業)を営み、数人の職人を雇って何不自由なく栄えていた。
吉兵衛は寺子屋で漢学を学び、やがて明治11年(1878)、同村津市場村の治田勘治郎・いとの4女はつを娶り、成人していった。
網干の道の芽生え
明治17年頃、阿波国名東郡高崎村の藍玉問屋有井熊太の番頭で、正木国蔵という人が藍玉を卸しに来た。
当時吉兵衛は、10年程以前よりとかく胃腸がすぐれず病弱で、医師薬餌と手段を尽すもその効なく、この病は不治と落胆していた。
そして、明治18年6月の来訪を機に、正木の商談は「身上かしもの、かりもの」の話に変り、しばらくの滞在を願って話を聞くうち、吉兵衛は深く感銘し、晴々と入信を誓った。
当時40歳であった。
正木は、当時阿波国撫養町の土佐卵之助を講元とする講社となっていた。
「度々来られぬので、飾磨津の紺谷久平と申す熱心な方からお話を承わるよう」
との正木の勧めに応じ、吉兵衛は、明治18年冬、紺谷久平を尋ねた。
そして翌明治19年5月、紺谷久平と同道で,兵神真明講講元端田久吉をたずね、諸先生のお世話に預かり、それよりいよいよ信仰の念を固め、各地に奔走して網干真明講と称し、自ら講元となった。
これが実質的な網干の道の始まりである。
最初のおぢば帰り
「明治20年1月末石田助左衛門氏(はつの里の親戚)と初めて本部(おぢば)へ参詣す。この当時、三島には宿屋、商家は一切なく、即ち布留の魚屋に宿泊し1週間滞在、日々本部に参詣す。豆腐屋(今の村田支度屋)に在りて諸先生の御説を種々承りてより帰村し、爾来奔走し信者を拡張す」(吉兵衛手記より)。
助けられた感激に燃える吉兵衛の話に、同村の藤戸新右衛門が入信。
近くに住む永岡豊太郎は幼少より身体がすぐれず、兄妹が若死の故から、吉兵衛の説く話に共鳴して母絹子ともに入信、つづいて池田千代松、合田菊太郎等が入信し追々信者が増加した。
一方、網干から神戸に縁づいていた松田くには、夫の源蔵とともに明治17年に兵神真明講社に入講していたが、その親戚に当る網干の新在家村網野吉蔵、網野吉次郎、三好嘉七、平塚佐助の4名を吉兵衛の網干真明講に合流させ、指導してくれるよう依頼してきた。
また明治21年春には、永岡与三郎、および、幼少より身体が弱く、四国巡りをしていた柳田清兵衛も、お道を聞き分け入信した。
明治21年の11月、音長物のもとへ、商田村の橋本某の親戚という人から次のような連絡があった。
その親戚の話によると、橋本はよく出稼ぎに行く人物で、時には大和にも行っていたようだが、最近半年ほどの間に、本人を含めて、家族全員が死に絶えたという。
そして橋本は、赤衣(単衣物)、お守り(奉虫払天理王命護)、御古記(明治14年本)の3点を、自分の死後、必ず天理王命の本部へ返してくれと遺言したというのである。
兵神の端田久吉にその旨を届けると、一存では判断できぬという。
そこで同月10日、吉兵衛が、実母の古宇、妻はつの母治田かつとともにおぢばへ帰り、事の次第を報告すると、湾田忠三郎、辻忠作両氏から、
「それは全く、神様よりお前さんにお下げくだされた赤衣さんだ」
と言われた。
この時吉兵衛は、同時に「おさづけの理」を拝戴し、二重の喜びを胸に帰村した。
網干出張所の設置
明治21年11月、教導職試補となった岡部吉兵衛は、布教に一層専念した。
明治23年には、網千真明講も藤戸新右衛門を副講元に、永岡与三郎、池田千代松、柳田清兵衛を会計、世話人に定め、近村より毎夜のように人々が集まり、元の神、実の神の話に明け暮れしていった。
この年には、網干の上級に当る飾磨真明講が隆盛を極め、姫路市野里に飾東支教会設置の運びとなり、吉兵衛はその取締、理事の役柄を受持った。
同23年には、余子浜に住む嘉納平吉が風眼になり、吉兵衛は出向いて諄々と教理を説いた。
平吉は、一緒に聞いていた弟の忠吉ともども入し、森下万助、前田悦十郎、茨木宗次らも入講した。
さらに、北方2里(8km)をへだった揖保村の島津義太郎も感動して入信した。
嘉納平吉は、親戚に当る大塚徳右衛門へ「においがけ」をした。
大塚は幼少時より盲目で、眼は直らないものの、教えに感動したのである。
やがて岡部講元の許しを得て、嘉納平吉、忠吉、大塚は岡山へ布教に出向いた。
そして岡山では、市内兵団の尾崎隼太が神経衰弱の妻の身上から入信、つづいて尾原良作、狩谷源吉の入信となり、明治25年6月、岡部講元が岡山に出張して、尾崎隼太を講元に、大塚徳右衛門を代理、嘉納忠吉を講脇にして岡山真明講社を結成する運びとなった。
明治26年には、新在家村において16軒の信者を結集し、同錦町に一つの寄り所を設けた。
その頃、岡山の尾崎隼太に導かれて入した服部保豊(後の東備布教所長)は、岡山市津島の在で、若き日に道楽を重ね、日清戦争で右足踝骨貫通銃瘡を受けて帰郷し、傷口癒えずの頃であった。
そうして教勢が伸びていく反面、吉兵衛の家庭は3人の子供は小さく、窮迫状態の深刻さは次第に度を加え、家業を捨てるにも捨てられず、明治27年8月13日に身上お願い伺いについての「おさしづ」を頂き、心を立て直し布教に専念する心を定めた。
明治29年、信者の数も120戸に至り、揖東郡網干町の内新在家村97番地永岡与三郎宅にて、兵神分教会部内網干出張所設置御願の願書を提出し、同年2月1日許しを得た。
本教一派独立
網干出張所設置以来、岡部吉兵衛は、家業の紺屋を長男吉雄にゆずり、道のおくれを悟って日夜東に西に「たすけ一条」に適進した。
揖保郡より入信した島津義太郎が、竜野町で胸を病む三木忠次へ「においがけ」をしたのは明治31年で、岡部所長からだんだんと教えを聞いた三木は、肺病で倒れ「灰」になる断絶の因縁を悟り、生涯をたすけ一条に捧げる心定めをした。
上太田町に寄り所を設置、その後発展し、明治36年12月、部内名称第1号として竜野布教所の許しを得た。
明治33年、道一条に進んだ服部保豊は、松葉杖を頼りに赤磐郡上市方面へ布教した。
そして、座骨神経痛と眼病で悩んでいた深谷忠五郎、茂三治父子が、服部よりの教えを諄々と受けるうち、済世救人が天職と悟って専心布教に従事するに至った。
明治34年8月、尾崎講元が足痛につき辞職を願い出たので、岡部所長が出張して、信者の意向調査のうえ同年11月19日に、服部保豊をもって後任に命じた。
その後熱心に布教活動が進むうちに、明治37年、信者の数100戸となり、部内名称第2号として東備布教所の許しを得た。
また明治39年4月には、深谷忠五郎を芯に熱烈な布教が展開され、赤磐布教所の設置をみるに至った。
さらに、これより以前の明治31年には隣郡の赤穂に、また33年には大阪九条に、それぞれ寄り所を設置した。
かくて網干の道は一斉に芽を吹きはじめたが、明治41年になって吉兵衛は再度身上を頂き、11月の本教一派独立を病床で聞き、万歳を叫びつつ翌12月19日、63歳をもって出直した。
当時の信者1.100戸、教師67名であった。
2代会長と教会移転
2代会長岡部吉雄は、7歳の時に初代が入信し、貧しい生活の中を勉学に励み、16歳にして初代の道一条から家計を受持って教会の内助に勤め、昼は商用に、夜は米をふみながら読書をし、初試験の勉強もしたという。
おさづけの理拝戴は明治31年11月9日であった。
39年には、竜野町の小幡藤治の娘ときと結婚した。
そして明治42年2月、網干支教会と改称と同時に、吉雄は31歳で2代会長に就任した。
これより先の明治34年、網干講社時代の住込み人木塚源七が、按摩を業としながら大阪へ布教に出ていた。
そして、その木原の導きを受けて、田頭春太郎、橋本梅吉が信仰を始めた。
橋本の母は結核の患いであったが、よく話を聞き分けて数カ月で御守護頂き、初代会長も来阪して、やがて明治45年5月には網阪宣教所の許しを得た。
大正2年(1913)、敷地364㎡(110坪)、建坪208㎡(63坪)の教会では狭いため、許しを得て、網干町興浜41番地の1.1.378㎡(417坪)の現在地に移転することになった。
古い教会の4倍もある移転地は、発展のために適切と思われたが、やれ道が遠いの、誰々が便利だからだと不満を言う者が出た。
そして、信者の参拝は減る、借金は出来る、生まれてくる子供は次々と出直していくという事情も生じた。
その状態の中にあった大正3年、嘉納忠吉が岡山から大阪へ布教し、余子浜に帰ってからも御津町方面へ布教して信者が増えたため、同年3月、播陽宜教所の設置をみた。
大正4年には支教会の隣地347㎡(105坪)の寄付を受け、計1.728㎡(523坪)の敷地となり、やっとこのふしを乗り切ることができた。
明治34年頃、初代会長が度々足を運ぶ岡山への道中で、子供の癇痛みに悩んでいる久保こいとに「おたすけ」をし、久保こいとが入信していた。
母の心を継いだ、こいとの4男幾太郎は、神戸へ布教に出て、大正6年9月、神庫宣教所を設立した。
また大正7年には、尾崎隼太の長女英に塩見国松を養子に迎え、岡山市内に教勢が伸びたのに伴い、同年1月、岡陽宣教所が設立された。
大正11年には、同じく赤磐の役員藤原林治の子息藤原虎治が岡山の可知村周辺を布教し、同年5月に可知宣教所を設立、さらに赤磐の岩本とめが松木真明講の名で布教に専念して、大正12年5月に磐梨宣教所を設立、部内教会数は9ヵ所になった。
教祖40年祭の旬に
教祖40年祭の活動期に入って、2代会長は倍に倍したたすけ一条の毎日を通った。
ある時は、人の悩みを聞きながら遠方の人に手紙を書く。
毎日5、6本の手紙を書き、教理の論しを、布教の指導を、励ましを筆に託した。
人は「筆の岡部」と言った。
歩いて布教する人からは、「理がない」と批判されながらも、時を惜しんで自転車を使い、早朝からおたすけに回り、雨、風、雪の日も信者の家を訪問した。
夜は手紙を書いてから、新聞を読んで就寝した。
そうした2代会長のつとめ一条、たすけ一条から、
大正13年には、備前旭東、陽江、網越、網姫 (現・備海)、揖保川、網上、和気、和道、和陽、和蒼の10ヵ所、
14年に竜林(現・三津吉)、幸、旭保、 東晃、網束、網美、陽輝、網伊和、網鷺、網幡、網川、網船、陽豊、竜勢(現・水和)、網大の15ヵ所、
15年に今市町、網津、網谷、網鴻、神堀、揖保神 (現・繁富)網竜(現・陽順)網十三(現・網大宮)網淀、網花、網庫の11万所、
昭和2年(1927)电誉(現・神明和)網穂、竜大、網長、網摂、網伊智、和備の7ヵ所と、実に43ヵ所の部内設置をみた。
飾東の分離昇格
大正14年、兵神から飾束が分離することとなり、2代会長は分離委員を拝命、分離による献納金、部内教会の昇格、新設教会の件等々もやっと解決すれば、直ぐ信者詰所を造らねばならぬ、休む時とてなく尽しきった。
当時、2代会長は
「一生の間には、日本の各府県に、少なくとも1カ所の名称を頂きたいものだ」
と言い、
「此の世で人を助けるという事は他の何物にも勝る仕事で、人として最上のご奉仕の道である」
と語った。
同年9月、網干分教会に昇格、昭和3年には竜晃、網豊、網港(現・陽仙)の3ヵ所を設置した。
飾東の大教会昇格の節に
布教意欲に燃える2代会長は、昭和3年5月、初代会長20年祭を記念して、1分教会単独で「おぢば帰り臨時列車団参」を実施(全教で初めてであったという)した。
以後8回にわたって実施し、おぢばに心を寄せていたが、昭和10年2月26日、本部月次祭に参拝したのが最後となった。
同年3月1日の現兵庫教務支庁移転奉告祭で、昭和3年以来の主事の責務を終え、3月10日の飾東の昇格奉告祭を目前にした3月4日、如何なる親神の御心にか、突如、57歳で出直したのである。
2代真柱は、飾東の昇格奉告祭の翌3月11日に巡教・来会し、親しく励ましの言葉を述べた。
3代会長と教会整理
3代会長岡部ときは2代会長の夫人であり、3男清之(4代会長) 20歳を頭に 6人の子供をかかえ、大世帯になった網干部内を引継いだ。
雨来2代会長の意志を継承し、教勢の伸展に、部内の内容充実に意を注いでいったが、飾東の分離に対する負債等々による消極的な動きと、戦時体制のため、次々と事情教会が発生した。
おぢばからの事情教会整理の声に呼応して、8ヵ所(和陽、旭保、 網鷲、網幡、網大、網花、網庫、網伊智)を他系統にゆずり、他系統より田鶴宣教所の名称を得て、また一方、任命、移転、改称をして、部内教会を48カ所に整理した。
昭和15年には陽安を設立した。
4代会長と神殿建築
昭和17年4代会長に就任した岡部清之は、2代会長の出直と、身上からの心定めにより勉学を中止し、専ら道の青年として勤め、 前年に友森安二の娘三起子と結婚していた。
会長就任当時は戦局も厳しくなっており、炭鉱ひのきしんに、航空隊に応召する数年が続いた。
やがて終戦を迎え、明けて昭和21年教祖60年祭の旬と共に、本格的な活動に入った。
昭和22年2月1日の夜半、教堂の屋根瓦5坪 (16m²) が県道にくずれ落ちた。
そこで、教会開設以来50年、何回となく先代が志してきた神殿建築の旬が与えられたものと、さっそく、役員、部内教会長全員が談じ合い、3代会長の激励を受け、昭和23年10月に建築の許しを得て、地鎮祭、基礎工事にかかり、曲折を経て、昭和26年10月に落成奉告祭を執行した。
昭和27年、4代会長は飾東大教会理事に就任、つづいて青年会本部委員に任命された。
この前後に、陽仙、陽慶、教備の教会設立があった。
また4代会長は、昭和38年5月、本部詰員に登用された。
たすけ委員長のお入込み・大教会に陞級
昭和39年7月5日、中山善衞たすけ委員長のお入込みを頂き、部内一同感数を新たに思召に添い切って勤めることを心定めた。
それからの網干は年祭活動に活発な働きがつづき、昭和40年に、陽東児、陽徳心、備岡山、上郡の設立があって、部内教会数55カ所に復す守護を頂いた。
教祖80年祭の昭和41年の11月、網干設立70周年記念祭の当日、飾東大教会長から分離陸級をとの言葉を頂き、役員及び部内一同協議をし、おぢばの声と受けさせて頂き、有終の親への奉公に勤め、何かの体制も整えて、昭和43年12月17日、真柱のお入込みを頂いて、大教会陞級奉告祭を勤めた。
かくて、大教会になってから一段と、大祭、月次祭も勇んで活気に溢れ、大教会長を芯に部内一同心を揃えて実働するなかに、昭和45年2月、信者詰所建設が決定され、やがて第29母屋(網干詰所)が竣工した。
教祖90年祭の翌昭和52年、4代会長は、陞級時より務めてきた教区主事から兵庫教区総合事務局長に昇任し、教区活動の推進役をつとめることとなった。
同年5月、大教会長から、大教会の移転建築の話が出て、先ず広い土地を守護頂くべく努力するなかに、昭和54年に現在地より西北10km距つ、揖保郡揖保川町正条に10.651(3.200坪)を取得することができた。
またこの間に、仙愛、東水を設立した。
教祖100年祭活動をひたむきに勤めあげるなかに、網京、陽勇を設立し、部内59カ所となった。
昭和60年秋より、大教会長は腰痛になりつつも、翌61年の教祖100年祭には、登殿参拝を感動をもって勤めた。
しかし、その勤めを仕上げたかのように、同年5月9日に出直した。
5代会長と神殿普請
4代会長出直により、後任大教会長問題について役員、部内教会長の練り合いが行われ、前会長の長男岡部喜次に決定を見、就任の許しを得て、昭和61年11月1日、5代会長就任奉告祭を執行した。
現在、網干では、新任の大教会長を芯として、時旬の勤めに、さらには、大教会の移転並びに神殿普請を目指して、部内一手一つに勇んでかかろうとしている。
網干大教会年表
年号 | 月日 | 内容 |
弘化3年 | 2月22日 | 岡部吉兵衛(初代会長)、播磨国に生まれる |
明治18年 | 6月 | 初代会長、正木國蔵から親神様の話を聞き深く感銘し、入信を誓う |
11月 | 紺谷久平を訪ね種々話し合う | |
明治19年 | 5月 | 初代会長、網干真明講社講元となる |
20 | 1月末 | 初代会長、はじめておぢばに帰り、諸先生の御説を種々と聞く |
21 | 11月8日 | 初代会長、教導職試補を拝命 |
11月13日 | 初代会長、おさづけの理を拝戴 | |
明治29年 | 2月1日 | 信者の数120戸に至り、本部より兵神分教会網干出張所設置の許しを得る。 |
明治36年 | 12月1日 | 竜野布教所を設置(部内第1号) |
明治37年 | 5月13日 | 東備布教所を設置、東備から赤磐布教所を設置 |
明治41年 | 12月19日 | 初代会長岡部吉兵衛出直(63歳) |
明治42年 | 2月12日 | 網干支教会と昇格改称 2代会長に岡部吉雄就任 |
明治45年 | 5月28日 | 網阪宣教所を設置 |
大正2年 | 4月11日 | 網干町(現在地) へ移転の許しを得る |
大正3年 | 3月27日 | 播陽宣教所を設置 つづいて神庫、岡陽、可知、磐梨宣教所と部内9ヵ所になる |
大正13年 | 教祖40年祭倍加運動に、計43ヵ所の部内教会の設置をみる | |
大正14年 | 9月22日 | 網干分教会に昇格 |
昭和3年 | 5月26日 | 初代会長20年祭記念おぢばがえり列車団参 |
昭和10年 | 3月4日 | 2代会長出直(57歳) |
3月11日 | 2代真柱の巡教を頂く | |
5月28日 | 3代会長に岡部とき就任 | |
昭和14年 | 部内8ヵ所を他系統に譲り、他系統より田鶴の名称を加えて、事情教会整理 | |
昭和17年 | 8月25日 | 4代会長に岡部清之就任 |
昭和23年 | 10月27日 | 神殿建築の許しを得る |
昭和26年 | 10月18日 | 神殿建築落成奉告祭執行 |
昭和39年 | 7月5日 | 中山善術たすけ委員長のお入込み |
7月8日 | 3代会長岡部とき出直 (74歳) | |
昭和41年 | 11月8日 | 教会設立70周年記念祭を執行。当日、 飾東大教会長から分離陞級の話あり |
昭和43年 | 2月26日 | 附属家増築、正門位置変更 |
10月24日 | 網干大教会に陞級 | |
12月17日 | 網干大教会陞級奉告祭執行 当時の教勢は部内教会55ヵ所、布教所79ヵ所、 教人390人、ようぼく1,935人 | |
昭和48年 | 12月23日 | 第29母屋(網干詰所)開所式 |
昭和54年 | 6月21日 | 飛地境内地の承認を得る |
昭和61年 | 5月9日 | 4代会長岡部清之出直(71歳) |
8月26日 | 5代会長に岡部喜次就任 | |
11月1日 | 5代会長就任奉告祭執行 |
『網干月報』(昭和36年~昭和39年)