村田幸助 むらたこうすけ
嘉永5年(1852)7月12日、大和国山辺郡前栽村に、父幸右衛門、母いゑの子として生まれた。
明治5年(1872)、当時は一家の相続人は徴兵免除の特典があったので、兄長平は目が悪くて徴兵の心配も無かったので、弟亀松(後に幸助と改名)を相続人として、父幸右衛門の跡を継ぐ事にし、兄長平には長男としての財産を分け与えて分家をさせた。
家屋敷は総て弟亀松の名義であった。
父の代からの信仰で、早くより度々おぢばに運んだ。
明治9年、亀松の身体が悪いので教祖(おやさま)に伺うと、
「よをぎの始めだし、元は一本枝は八本、これついたなら後のよをぎは早く定まる」
と仰せられた。
明治10年、桝井すまと結婚、5月には教祖から赤衣を頂いた。
この頃、幸助は教祖から
「鍬の芯」
とも仰せられていた。
明治13年には赤衣の紋章を頂く。
警察の弾圧が烈しくなった時、参拝が許されなかったので、側近の人々は毎日、豆腐屋へ詰めたが、その通称「豆腐屋の宿」のふしんに、幸助は家土地家財一切売り払ってその費用とした。
村田幸助は、おつとめには、をふとのべのみことの面でつとめた。
明治16、17年の三島、河内の雨乞づとめにも出向いた。
明治20年12月8日には「かんろだいのさづけ」を頂いた。
大正13年(1924)1月31日出直し。73歳。