佐治登喜治良 さじときじろう
明治41年(1908)、正隆(まさたか)と改名。
文久元年(1861)近江国甲賀郡神保村(現、滋賀県甲賀郡甲賀町神保)に父藤橋長右衛門、母なみの次男として生まれた。
実兄藤橋光治良は水口大教会初代会長になった。
明治元年(1868)から近くの寺子屋へ通い、同9年には王滝学校という所で村の子供達に和漢の書について教えている。
明治13年、甲賀郡嵯峨村佐治伊八の養女くにと結婚、同家の養嗣子となる。
明治16年軍隊に入り、翌年大和への行軍中、宿で教祖(おやさま)を拝し、主人から教理の概要を聞いて感銘を受ける(『稿本天理教教祖伝逸話篇』243~245ページ)。
明治19年、京都府宇治田原町の西野清兵衛は初めて天理教を滋賀県甲賀地方へ伝えた。先年教祖の姿を拝していた登喜治良は西野の説く教えに深く感じ入り、以後熱心に布教するようになる。
明治21年、斯道会第95号講社を自宅に結び、新たに布教の根拠地と定めた八日市にて明治22年10月、湖東連合集談所を開設した。
佐治登喜治良に始まった布教線は、愛知、新潟、九州へと伸び、明治24年9月26日湖東支教会設置となり、翌年12月20日県の認可を得て、初代会長となった。
これは天理教が滋賀県下で得た初めての認可であり、その後甲賀、水口の支教会も認可となった。
登喜治良の努力が大きかったと言われる。
生来、気性激しく、布教や説教の時かなりの大声であった。
一面、布教の当初には養父の反対に耐え、自宅から離れた集談所で家族を憶う事もしばしばであった。
明治35年、河原町より分離昇格。
明治42年、湖東は大教会と改称した。
昭和3年(1928)教会ふしん起工式直後の4月3日出直した。68歳。