天理教人名辞典 植田平一郎 うえだへいいちろう

植田平一郎 うえだへいいちろう

弘化3年(1846)5月25日大和国葛下郡池田村で父萬田平次郎、母コトの長男として生まれた。同じ村の植田家とは昔からの親戚の関係から、植田家の一人娘きぬの婿養子にと懇望されていた。

家には弥七・萬吉(のちに島ヶ原大教会初代会長となる)の2人の弟があったので、長男であったけれども、切なる頼みを断りきれず、明治初年の頃、入婿することになった。

植田家の人になったときには、祖父の忠右衛門と母のキワ(俗名をキミともいう)とがいた。

忠右衛門は村の庄屋を務めていたが、明治維新になってからは、農業に従事していた。

しかし、平一郎が入ってまもなく、織屋(はたや)を営むことになった。

植田家と萬田家は、昔から村でも豪家で、苗字を許されていたが、ともに明治の初め境には、もう下り坂になっていた。

しかし、木綿製造を営むことになってからは、事業も順調にいって、家も次第に栄えてきた。

そしてこの間に、長男楢松が明治4年(1871)に、二男治道が明治6年に、三男一史が明治9年4月14日に出生している。

明治12年頃、社会の経済状態に変動があって、織屋も損が立つというので、これを廃業し、また、家屋敷を売って新たに土地を買って移転、15年頃より醤油醸造を始め、そのかたわら白米商を営んだ。

醤油は大阪の親戚へ出店をして送品していたが、品物だけ売って代金をすこしも送ってこないので、これも思ったほどの利益がなかった。

当時、萬田家では菓子屋とともに、ガラスの製造をしていたので、息子らがそれを習い、本業の醤油造りを親がして、息子らはガラスの製造をすることになった。

このガラス製造は相当の利益があり、販路も越前(福井県嶺南)の敦賀地方にも拡張していた。

このように、家業はしばらくの年月のあいだに二転三転していったが、家庭にあってもいろいろなふしがあった。

妻きぬが三男一史の出産後まもなく病気になって、2年も長いあいだ病み続け、明治11年10月出直した。

明治14年春、弟の弥七が出直し、その妻いのが未亡人となっていたのを、萬田の両親からの勧めにしたがって、同年冬にいのと結婚した。

まもなくいのとの間に長女すゑが生まれ、これからのぼり坂になろうとしているとき、一家に大きなふしがやってきた。

明治19年初秋、平一郎はふとしたことから右親指を思った。

初めの頃は、さほど気にとめなかったが、日増しに痛みがひどく腫れてうずくので、これはただならぬことと思い、村の前木という医者にかかったが、いっこうに良くならないので、高田の浅見、大谷の力という医者にも診てもらったり、西国33番が守り本尊であるというところから、一心に願をかけた。

しかし、痛みは治まるどころか、ますますひどくなって、ついには、腕は白瓜のように腫れあがり、平一郎は痛さのために、うめき続けていた。

その当時平一郎の家には雇われて来ていた老婦がいた。

この老婦から「丹波市庄屋敷に生き神様がおられる、一度お参りしては」とすすめられた。

平一郎は、さっそく荷車に乗せられておぢばにお参りした。

その時の様子は伝えられていないが、帰る頃には痛んでいた腕はおさまっていて、あざやかにたすけていただいていた。

明治19年陰暦9月9日、平一郎(41歳)入信の日である。

母キワ73歳、妻いの35歳、楢松16歳、治通14歳、一史11歳、すゑ4歳の合わせて7人家族であった。

この日を境に平一郎は家業を子どもたちにまかせ、ひたすらおたすけに奔走、毎月の26日には欠かさず、おぢばに帰ることを心に決めて実行した。

そしてその年19年の暮には信者を連れて参拝した折、初代真柱から「治心講池田組」の講名をいただいた。

それと同時に「一時天竜講(郡山大教会の前身、講元:平野楢蔵)とともに布教し、講社が千軒できたら治心講の講名を元通りにする」との声がかりで、天竜講に所属することになった。

明治20年12月21日おさづけの理拝戴。明治24年2月27日中和支教会設置をゆるされ、会長となる。

明治28年12月17日教会移転建築落成奉告祭(奈良県北葛城郡高田町高田1099)執行、明治33年6月28日分教会に引き直し、郡山より分離して、本部直属となる。

明治35年10年2日出直し。57歳。