天理教人名辞典 中山善衛 なかやまぜんえ

中山善衛 なかやまぜんえ

3代真柱。

昭和7年(1932)7月7日、2代真柱中山正善、せつの長男として生まれる。

昭和24年10月26日、真柱継承者に選定され、昭和42年11月14日、中山正善出直しにともない真柱となる。

昭和30年3月20日、慶應義塾大学文学部史学科卒業。

昭和33年2月7日、土佐まさと結婚、善司、よしの(増野)、善亮(中田)、みやの(仲野)、いくの(鹿尾)、善平(久保)の3男3女がある(注()内の姓は縁家)。

多感な少年時代を、戦中J戦後の混乱した世相の中、しかも天理教に対する厳しい政府の干渉の最中にあっても、毅然と確固とした信念のもと教団を導いていた父2代真柱の姿を側近くに見、細やかな心配りと愛情を注がれた母に育てられ、伸びやかに、そして穏やかに過ごした。

小学、中学、高校と天理で学び、大学は東京であった。

文学部史学科にて学業を修める傍ら、2代真柱と親交のあった各分野の学者より広く学び、山田耕符の薫陶を受けて、早くから身につけていた音楽に、一層磨きをかけた。

大学在学中の昭和28年、天理教青年会の会長に就任、あらきとうりょうの先頭に立った。

昭和30年3月、大学を卒業して帰郷、多忙な父真柱を助けて、教団の枢要な働きをするようになった。

特に前年より始まったおやさとやかたの建設に若い力を発揮、翌31年4月1日には、やかたの建設は年会の手でと、「おやさとふしん青年会ひのきしん隊」を発足し、自ら隊長となって推進した。

この青年会ひのきしん隊は、平成9年(1997)3月に600回隊を数え、なお今日まで続いており、真柱となって多忙な中にも毎月のように、隊員に親しくふしんの意義と青年の役割を中心に話をしている。

昭和31年9月27日、おっとめ研究とあらゆる音楽を通して教えを深めるとともに人々へ伝え、歌い奏でることによって互いに一手一つの心を求め、自ら陽気ぐらしを味わうことを目的として、天理教音楽研究会が発足し、会長となった。

まず合唱団が結成され、自ら団員として舞台にも立ち、「おふでさき」に曲をつけて「おうた」として親しく歌うことを提唱、作曲された「おうた」をもって、各地で演奏会を行っている。

昭和35年には児童合唱団と雅楽部が、昭和38年には器楽部が設けられ、昭和41年にはヴァイオリン教室が発足、永年の積み重ねで、今日オーケストラに成長している。

いずれも、林雄一郎等専門家の指導を仰いでいるが、会長の思いに負うところが大きい。

教祖(おやさま)に教えられたおっとめの節回しなど、音楽的変化を最小限に止めたいとの思いから始まったおっとめ研究は、昭和49年真柱自ら地方を担当して録音、カセットテープでリリースされ、更に平成4年(1992)に再度録音がなされ、CDとして実を結び一般に普及している。

昭和34年4月には、奈良教区の修理人となり、県内441カ所の教会を巡教、36年3月には、修理人及び青年会長として初めて、未だ本土復帰を果たしていない沖縄を訪問、管内教会を巡教して教友を励ました。

同年10月26日には、教祖80年祭実行委員会に、たすけ・ふしん・こふきの3委員会が置かれた折、たすけ委員長に就任して、まず翌昭和37年1月17日より直属教会の巡教を開始、39年2月2日からは部内巡教を始めて、平成元年9月22日その数1.000カ所となり、海外教会や直属教会、奈良・沖縄教区内の教会など通算すると2.000カ所以上の教会を巡教したことになる。

これは、「一人でも多くの人たちと顔を合わせて心をつなぎたい。土地所の教会活動に骨を折って下さる皆さん方におねぎらい申したい」との思いを変わらず持ち続けた結果であるといえる。

なお、教祖80年祭が執行された昭和41年4月27日、たすけ審議会が設けられ、その委員長となった。

昭和40年5月26日、全よふぼくの会であるよのもと会が再発足されるにあたり、会長に就任した。

翌年の総会には「三年に一人が三人のよふぼくを」の「一・三・三運動」を提唱、同会による全教区一斉巡教が行われて、地域別おぢば帰りが実現した。

現在、組織は委員長制をとっており、総裁にもなった。

昭和41年9月28日には、教えが次世代へ受け継がれる、縦の伝道を全教的なこととして考え実働するために、天理教少年会を設立、会長に就任した。

少年会の結成によって、夏のこどもおぢばがえり及び少年ひのきしん隊をはじめ各団、隊の活動が活発になされるようになった。

こどもおぢばがえりの行事の中でも大切な「朝のおっとめ」では、毎日帰参した子供達に易しく話を取り次ぎ、夜の「おやさとパレード」にも参加して子供達の健やかな成長を見守っている。

なお、昭和55年青年会長を譲ったのに続いて、平成3年、長男である善司真柱継承者と少年会長を交替した。

若者の育成に関しては、学生層(高校・大学)に対しても心を砕き、毎春開催されている天理教学生会の総会には、必ず出席、親しく語りかけており、直属、教区に学生担当委員会を設けて、学生層の健全な育成を促している。

昭和42年11月14日、2代真柱の突然の出直しにより真柱を継承し、その奉告祭を翌43年10月25日に執行されるや、同日「諭達」第1号を公布、2代真柱の提唱した三信条は、教祖のひながたを辿ることによって実現されることを諭し、教祖の道具衆としてのよふぼくの奮起を促すとともに、「内を治めるしんばしら」の御神言のままに、初代、2代真柱の歩んだ道の上にたって、更に歩みを進めることになった。

まず、救済におけるつとめと互いたすけの大切さを身をもって伝え、たすけ一条の道を進めるために、教会内容の充実を図るよう諭した。

昭和44年の秋の大祭より祭典当日の午後の別席を休むことにしたのも、教祖90年祭を目前に控えた昭和50年5月24日、雛型かんろだいのすえかえを行い、更に教祖百年祭へ向けての活動の中で、昭和59年10月24日、雛型かんろだいのすえかえを行ったのも、翌日「四方正面」のお言葉にしたがって竣工した東西礼拝場のふしんも、かぐらづとめを拝することが出来るようにと神殿上段を改修したのも、つとめの理の徹底にある。

また、真柱就任後今日までつとめられた3回の教祖年祭にあたっては、定命を25年縮めてまでもたすけを急き込まれた教祖の親心に応える機会であるととらえ、90年祭では「諭達」第2号をもって「つとめとさづけ」を通しての心の成人を、百年祭では「諭達」第3号により教祖の「ひながた」の道をひながた通り歩み、世界一れつの心のふしんを呼びかけ、110年祭では「諭達」第4号をもって信仰の実践による一人ひとりの成人を促した。

海外へは、昭和29年5月18日から9月9日の間、2代真柱の随行としてハワイ、欧米への巡教を囁矢として、アメリカ・カナダ(昭和33年7月2日~8月16日)、ヨーロッパ・アフリカ・南米(昭和40年7月29日~9月22日)へ、真柱となってからは、アメリカ伝道庁6代庁長就任奉告祭参拝を機としてのアメリカ巡教(昭和45年9月1日~11日)、ハワイ伝道庁3代庁長就任奉告祭並びにブラジル伝道庁創立20周年記念祭参拝のためのハワイ・ブラジル巡教(昭和46年7月2日~20日)、コンゴ・ブラザビル教会月次祭参拝のコンゴ・フランス巡教(昭和48年2月4日~17日)、ハワイ伝道庁創立20周年記念祭参拝のハワイ巡教(昭和49年6月12日~18日)、ハワイ青年大会参加・アメリカ伝道庁お社取り替え鎮座・奉告祭並びに創立40周年記念祭参拝を機に西海岸教会巡教(昭和49年8月8日~21日)、西ドイツはマールブルクにあるフィリップス大学で開催された天理教展覧会出席の折のヨーロッパ巡教(昭和50年5月7日~20日)、コンゴ・ブラザビル教会長就任奉告祭参拝とその途次、シンガポール出張所参拝の東南アジア・アフリカ巡教(昭和50年7月4日~14日)、ハワイ伝道庁日本庭園開園式・ハワイよふぼく大会出席並びにアメリカ伝道庁7代庁長就任奉告祭参拝(昭和52年6月7日~6月21日)、台湾伝道庁神殿建築落成鎮座・奉告祭参拝の折に台湾内教会巡教(昭和52年9月9日~16日)、ハワイ伝道庁4代庁長就任奉告祭参拝(昭和56年6月15日~22日)、ブラジル伝道庁創立30周年記念祭参拝ならびに天理フレスノ文化センター視察(昭和56年7月6日~21日)、台湾伝道庁9代庁長就任奉告祭参拝(昭和57年2月18日~22日)、コロンビア出張所参拝・あらき農場視察並びにアメリカ婦人会・青年会創立30周年記念総会参拝・アメリカ伝道庁創立50周年記念祭参拝(昭和59年6月8日~22日)、ハワイ伝道庁5代庁長就任奉告祭参拝(昭和61年9月9日~15日)、アメリカ伝道庁8代庁長就任奉告祭参拝並びにメキシコ出張所ふしん予定地視察の所管内教会巡教(昭和61年11月28日~12月5日)、天理日仏文化協会視察並びにパリ出張所月次祭の折、ヨーロッパ巡教(昭和62年12月7日~19日)、台湾伝道庁10代庁長就任奉告祭参拝(平成元年10月16日~18日)、パリ出張所神殿落成奉告祭並びに開設20周年記念祭参拝の折、ヨーロッパ巡教(平成2年9月5日~18日)、ブラジル伝道庁創立40周年記念祭参拝並びにニューヨークセンター参拝・天理文化協会視察(平成3年7月8日~20日)、コロンビア出張所開設20周年記念祭参拝の折、南北アメリカ巡教(平成4年3月4日~13日)、シンガポール出張所開設20周年記念祭参拝の機に東南アジア巡教(平成4年5月12日~19日)、ヨーロッパ出張所参拝・ブラジル伝道庁お社取り替え・神殿増築・屋根葺き替え鎮座・奉告祭並びに伝道庁2代庁長就任奉告祭参拝(平成5年9月3日~17日)、タイ出張所神殿落成奉告祭並びにハワイ伝道庁創立40周年記念祭参拝の折、タイ・ハワイ巡教(平成6年5月9日~19日)、アメリカ伝道庁創立60周年記念祭参拝の折、ペルー・アメリカ巡教(平成6年8月14日~23日)、台湾伝道庁11代庁長就任奉告祭参拝に際して台湾巡教(平成7年8月7日~12日)と、教会本部の拠点のみならず部内教会、布教所まで足を伸ばして、布教の労をねぎらうとともに、自ら伝道の足跡を残している。

また、陽気ぐらし世界実現のため、放送、出版のメディアを通じて広く教えを伝えている。

昭和38年には、教祖70年祭に出版された『稿本天理教教祖伝』の朗読を毎日テレビで放送、昭和46年4月8日からは、「朝の人生読本」と題して過1回13回にわたり、TBSをキーステーションとして5局で放送が始まった。

教祖と教えによる生き方についてやさしい言葉で語りかけたもので、好評を博し、全国30を越える局で放送され、後に同名の書並びに16mm、8mm映画として発刊された。

昭和50年の正月、全国ネットでラジオ放送されている「天理教の時間」で、「新しい年を迎えて」と題して、混迷する現代社会に対して、人間本来の生き方を説き、翌51年の年頭にも行った。

平成5年には、女優として、またよふぼく議員として著名な山口淑子元参議院議員との対談が、毎日新聞に「陽気ぐらしの生き方」と遷して連載された。

この他、テレビ・ラジオ局、新聞・雑誌社のインタビューにも数多く応じている。

出版物としては、山田耕作を初め教内外の著名人25名との対談を『あらきとうりよう』誌に連載、これをまとめた『僕のインタビュー』(道友社、昭和40年)があり、『道しるべ』(道友社、昭和51年)は、教祖90年祭期間中日刊で発行されていた『天理時報』に連載されたもので、天理教の歴史をひもときながら年祭の旬ごとに導かれる、親神の教えの展開を顧みたものであり、『喜びの日々』(道友社、平成4年)は、『朝の人生読本』に加筆したものである。

2代真柱の結んだ交友関係を大切にし、殊に、宗教界の人々と世界平和に対する活動を共にしている。

昭和45年には、京都を会場に開催された世界宗教者平和会議に、名誉顧問として出席して、参加した各宗の代表者を本部に案内、昭和62年には比叡山宗教サミットの参加者と懇親を深めた。

第2バチカン公会議以降、他宗との対話と協力を行っているカトリックとの交流も深く、昭和45年には、2代真柱の昭和26年バチカン訪問に対する答礼のため、ピオ12世の特使として訪れたマレラ枢機卿を迎え、昭和56年には、ローマ法王として初めて来日した、ヨハネス・パウロ2世と会見した。

教えの基となる教義書の編纂と普及に力を注ぎ、昭和51年教祖90年祭の記念品として『稿本天理教教祖伝逸話篇』を刊行し下付、翌52年「おさしづ」の縮刷版を発行した。

また、2代真柱の進めていた復元の歩みを継承し、推進した。

昭和45年に教派神道連合会より退会、教祖90年祭を機に祭典の折、神前に置かれていた神寵を廃止し、教祖百年祭を機に注連縄を取り外し、玉串奉集をやめた。

音楽に対する造詣はことのほか深く、特技を活かしていくつもの作詞があり作曲がある。

これを自ら歌って録音し、テープ、CDに収めている。

各年祭時の歌や、少年会の歌に教理をやさしく歌い込み、知らず識らずのうちに教えが覚えられ、身に付くようになっている。

早くには、「青年会員のうた」(昭和31年)、「教祖80年祭の歌」(昭和38年、作詞は中山正善)、「なかま音頭」(昭和41年、作詞清水国雄)、「少年会の歌」(昭和42年、作詞中山立と)があり、近くは「教祖百年祭の歌」(昭和56年)、「親神様の守護」(昭和62年)などがある。